即戦力入団も“絶望”「力不足を感じた」 プライドぐちゃぐちゃ…高校生にも脱帽

元中日・豊田誠佑氏【写真:山口真司】
元中日・豊田誠佑氏【写真:山口真司】

元中日の豊田氏がプロ1年目に痛感した壁

 明治大からドラフト外で中日に入団した豊田誠佑氏(名古屋市中川区・居酒屋「おちょうしもん」経営)は、プロ1年目の1979年、1軍出場なしに終わった。大学時代は俊足、巧打の外野手として活躍したが、プロは甘くなかった。「体力のなさを痛感しました」とレベルの差に打ちのめされた。それどころか、同じドラフト外で、年下の高卒同期入団の選手を見て「こいつ、ホントに高校生かよって思った」という。

 1978年、中日入りが決まった豊田氏は、夢と希望に満ちあふれていた。「12月には近所の人が入団記念パーティーもやってくれました」と感謝、感激で生まれ故郷の東京から旅立った。背番号は25に決まった。「いい番号をいただいたなと思いました」。名古屋での合同自主トレでは、まず明大の先輩である星野仙一投手に「『よろしくお願いします』と挨拶に行きました。『頑張れよ』って声もかけてもらいました」。

 明大3年(1977年)春に東京六大学リーグで首位打者に輝くなど、実績を引っ提げての中日入り。だが、船出は最悪だった。春季キャンプは1軍も2軍も、宮崎・串間市で行われたが、いきなりプロの壁にブチ当たった。「僕は2軍でしたが、力不足を感じました。フリーバッティングで前に打球が飛んでいかなかったんです。周りとはスイングスピードも違ったし、体力のなさも痛感しました」と挫折を味わった。

 大学時代の栄光はあっという間に吹っ飛んだ。豊田氏は苦笑しながら、こう続けた。「この時に川又(米利内野手)が高校(早稲田実)から、僕と同じドラフト外で入ったんですけど、アイツはもうガンガン打つんですよ。本当に高校生かよって思いましたねぇ……」。実際、川又氏は当時の自身について「僕は1年目のキャンプからやれると思った。思ったように打てていたんでね」と言い切っていたが、豊田氏もその姿に圧倒されたということだろう。

 プロの先輩どころか、年下の同期にも遅れを取った豊田氏は「キャンプから、よう走らされました」と、体作りからやり直すことになった。ウエートトレにも励み、数多くバットも振った。「シーズン前半は2軍でも全然打てなかったです。それでも、当時、2軍監督だった杉山(悟)さんと、バッティングコーチだった広野(功)さんが、僕を使ってくれたんです」。

熱心に指導してくれたコーチに届けたメモリアル弾

 そして、ようやくプロの体になった夏頃から、変化が起きたという。「スイングスピードも速くなったし、足も動くようになった。体がバシッとなったら、(2軍で)打てるようになったんです。まぁ、よう練習しましたもんねぇ。やっぱり振ったもん勝ちだよね、って思いますよ」。そこまでレベルを引き上げたのは、自身の努力プラス周囲のバックアップもあってのことだった。1年目を振り返りながら、豊田氏は特に当時1軍守備コーチだった一枝修平氏に感謝する。

 その頃は名古屋市中村区向島にあった中日合宿所に一枝コーチも暮らしており「朝も夜も時間があれば、ティーを上げてくれたり、ガンガン練習させてもらった。僕の練習に付き合ってくれたんです」。1軍コーチだから、2軍とは当然、活動時間帯が違う。そんななかでのマンツーマン指導だった。これが豊田氏のプロ1年目の成長につながった。いろんなことを熱心に教えてくれた一枝コーチの存在がなければ、どうなったかわからない。それくらい大きなプラスをもたらしてくれたという。

 プロ1年目の1軍昇格は果たせなかったものの、2軍で後半に結果を出し、次につながるところまで持っていった。翌1980年、2年目の豊田氏はキャンプから1軍スタートとなり、成長した姿を1軍の中利夫監督ら首脳陣にアピール。この年は1軍で102試合に出場し、242打数61安打の打率.252、3本塁打、18打点、6盗塁の成績を残した。ここからプロ人生は本格化していった。

 そんな2年目の1980年6月19日の広島戦(ナゴヤ球場)で、豊田氏は途中から右翼守備に就き、8回の打席で広島守護神・江夏豊投手からプロ初本塁打を放った。「カーブを打ちました。思いっ切り振ったらレフトスタンドにね。あの時、一枝さんがサードベースコーチでね。(ダイヤモンドを)一周するとき、“うわぁ”ってすごく喜んでくれたんですよ」。苦しい時期を支えてくれた一枝コーチへの恩返しにもなったメモリアル弾は、忘れられない熱い思い出だ。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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