内野転向で“地獄”「死ぬかと思った」 定位置奪えず1年で外野戻るも…思わぬ副産物

元中日・豊田誠佑氏【写真:山口真司】
元中日・豊田誠佑氏【写真:山口真司】

元中日の豊田氏が振り返る、プロ3年目の内野手コンバート

 元中日外野手の豊田誠佑氏(名古屋市中川区・居酒屋「おちょうしもん」経営)は、公式戦で三塁と二塁を守った年が1シーズンだけある。3年目の1981年で、キャンプから内野手に挑戦していた。1980年限りで2代目ミスタードラゴンズと呼ばれ、華麗な二塁守備で知られた高木守道氏が現役を引退。その“後釜二塁手候補”となり、1軍作戦守備コーチに就任した高木氏に鍛えられたが「死ぬかと思った」とポツリ。まさに“地獄”だったという。

 明大から1978年ドラフト外入団の豊田氏は、いきなりプロとの実力差を痛感。1年目(1979年)は体作りからやり直し、一度も1軍に上がることなく終わったが、2年目(1980年)は成長した姿を見せ始めた。初出場は4月19日の大洋戦(ナゴヤ球場)で、代打起用され、平松政次投手の前に右飛。「すごい球持ちがいいピッチャーで、なかなかボールが出てこない。プロってみんなこうなのかなと思いましたよ」と話したが、それも経験ととらえて次に進んだ。

 2試合目の出場となった4月22日の広島戦(広島)では、池谷公二郎投手からプロ初安打をマーク。翌23日の同カードでは3打数無安打だったものの「2番・右翼」で初めてスタメン起用された。その後はしばらく代打中心。6月10日の阪神戦(富山)で、大学の先輩である星野仙一投手の代打として出場し、中前適時打を放ちプロ初打点。6月19日の広島戦(ナゴヤ球場)では途中右翼守備に就き、回ってきた打席で江夏豊投手からプロ初本塁打をブチかました。

 7月からは「2番・右翼」での起用が続き、スタメンでは9試合連続安打。7月6日の巨人戦(ナゴヤ球場)では、明大3年春の法大戦で8打数7安打と打ちまくった江川卓投手からプロでも安打をマークした。9月21日の大洋戦ダブルヘッダー第2試合(ナゴヤ球場)では、初打席で凡退した平松投手から3安打を放ってお返し。中日の星野投手が延長11回完投勝利を挙げた9月29日の阪神戦(甲子園)では小林繁投手から3安打するなど、エース級を打ち崩すシーンも目立った。

ノックばかりだった練習「死ぬかと思いました」

 「どうやって打ったのかな。あまり覚えていない」と豊田氏は笑ったが、2年目は102試合に出場して打率.252、3本塁打、18打点。特にシーズン後半の働きが評価され、この年限りで引退した高木守道内野手の穴を埋める二塁手候補に田野倉正樹内野手とともに指名された。そこからが“地獄”だったという。「守道さんがコーチになって、セカンドの練習をするようになったんだけど、僕の場合はそれまでやったことがなかったし、きつかったですよ」と顔をしかめた。

 「キャンプとかはほとんどノックばっかり。バッティング練習はそんなにしなかったですからね。死ぬかと思いました。守道さんのノックはピストルみたいだもん。トントントントントントンって……。せっかちですしね」。休む間もないスピードで繰り出されるノックに、ノンストップで1時間半くらいやるのはザラだった。だが、二塁レギュラーの座はつかめずじまいだった。

 「(3年目の1981年)シーズン中盤から近藤(貞雄)監督が大島(康徳)さんをサードからレフトに回して、僕が(スタメンで)サードを守ることが増えたけど、サードは怖かった。右バッターの外国人選手の打球なんか強烈だったからね」と振り返ったように、内野向きではなかったのかもしれない。1982年からのケン・モッカ内野手の加入も重なり、豊田氏の内野手としての出番は1981年の1年だけで終わった。

 しかしながら“守道ノック”が違う効果を引き出したという。「バッティングがよくなったんですよ。その年はよく打ちましたから」と豊田氏は話す。連日の守備練習で高木コーチに鍛えられたことで、体のキレが増して、打撃力がアップ。114試合に出場した3年目は規定打席には届かなかったものの、打率は.292とジャンプアップした。「死ぬかと思った」日々は決して無駄ではなかった。練習が豊田氏を成長させたのだった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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