中日エースから自腹の“ご祝儀” 運命変えた巨人戦…先輩投手からご機嫌の5万円

怪物右腕・江川が登板する試合、豊田氏はプロ初の5番で先発出場
1979年から中日でプレーした豊田誠佑氏(名古屋市中川区・居酒屋「おちょうしもん」経営)は、明治大3年(1977年)春に、法政大の怪物右腕・江川卓投手から8打数7安打をマークし「江川キラー」として名を馳せた。プロでも3年目の1981年6月2日の巨人戦(ナゴヤ球場)で、江川に対する相性の良さを証明して、その異名を継続。試合前ミーティングでは、中日首脳陣から「江川攻略法を話してくれ」と言われたことまであったという。
プロ3年目の豊田氏は、三塁や二塁を守るなど、内野手に挑戦。守備力には課題があったが、打撃面では成長を見せた。特に活躍が目立ったのは6月だ。5月終了時点で打率.265だったが、6月終了時点では.301まで上昇した。そのきっかけになったのが6月2日の巨人戦だ。試合は1-2で中日が敗れ、巨人・江川が完投勝利。中日打線はわずか3安打に封じられたが、そのうちの2安打を、いずれも二塁打でマークしたのが「2番・右翼」で出場した豊田氏だ。
「(打撃)内容とかはあまり覚えていないけどね」と照れるように話したが、大学時代の「江川キラー」の称号を証明する活躍はインパクトがあった。打撃の調子もここから上昇。6月4日の巨人戦では定岡正二投手らから4打数4安打、続く6月6日のヤクルト戦(長岡悠久山)では5打数3安打。6月19日の巨人戦(ナゴヤ球場)では浅野啓司投手から1号2ランを放ち、明大先輩でもある星野仙一投手の2失点完投勝利をアシストした。
「その時は星野さんに5万円をもらった、それは覚えているなぁ。試合が終わったら(名古屋歓楽街の)錦のステーキハウスに来いって言われて、肉もご馳走になったんですよ」。そして6月21日の巨人戦(ナゴヤ球場)では、3番・大島康徳外野手、4番・谷沢健一内野手に続く、プロ初の5番で起用された。巨人先発は江川。中日の近藤貞雄監督が、豊田氏を「江川キラー」として抜擢したのだった。
中日首脳陣から思わぬ依頼「江川攻略法を話してくれ」
この試合の豊田氏は3打数無安打1四球に終わったが、“江川には豊田”のイメージが中日首脳陣にはできあがっていたのだろう。その後は2番、6番、7番などで使われたが、江川先発試合の7月7日の巨人戦(札幌円山)では再び5番を任された。この時も4打数無安打と打てなかったものの、対江川になると豊田氏の出番が増えるという図式はその先も続いていく。それどころか「ミーティングでも『トヨ! ちょっと(江川)攻略法を話してくれ』って言われたことがありましたよ」と笑いながら明かした。
このシーズン、豊田氏は9月にも9試合連続安打を放つなど、好調をキープ。シーズン最終戦の10月11日の巨人戦(ナゴヤ球場)では「1番・三塁」で出場し、江川から4号本塁打を放ち、プロ3年目を締め括った。規定打席には到達しなかったものの、114試合に出場し打率.292、4本塁打、29打点、9盗塁の成績を残し、9度の猛打賞をマーク。6月2日の巨人戦で江川から2本の二塁打を放って以降、波に乗り、プロでやっていく自信のようなものが芽生えた3年目でもあった。
豊田氏は翌1982年9月28日の巨人戦(ナゴヤ球場)でも2-6の9回、江川から大逆転勝利の口火となる代打安打を放つなど、プロでも「江川キラー」が代名詞になった。「俺なんか、それだけですもん(笑)。でも、そういうのって大事ですよね」。結果を出していなければ、そういった“異名”で呼ばれることはない。他の打者が苦戦した大投手を打ったからこそのことだ。明大3年春に江川から安打を重ね、自身を“進化”させたように、プロでも江川との戦いが豊田氏の野球人生の“キー”になった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)