球団社長から「次の年が最後」 不振、故障、若手の台頭も…中日戦士に戻った“闘志”

元中日・豊田氏、プロ4年目に西武との日本シリーズに出場
成績がさらにダウンした。元中日外野手の豊田誠佑氏(名古屋市中川区・居酒屋「おちょうしもん」経営)は、プロ5年目の1983年、1軍でわずか1安打に終わった。「気持ちが乗っていなかった」。前年はオープン戦での怪我もあって中堅レギュラーのチャンスを逃したものの、リーグ優勝を味わい、西武との日本シリーズでも適時打を放った。だが、そこからエンジンがかからなかった。中堅の座を勝ち取った平野謙外野手の活躍で「俺はもう終わっちゃったなと思ってしまった」という。
1982年の春季キャンプは中堅レギュラー獲りに向けて充実の日々を送ったが、1983年の春季キャンプは全く違った。わずか1年で豊田氏の立場は完全に様変わり。中堅レギュラーには、走攻守3拍子揃うスイッチヒッターに成長した平野謙外野手が定着。「精神的に駄目だった。(現在の)店の屋号と同じで乗せれば“おちょうしもん”なんですけど、乗らない時は駄目なんですよね」と苦笑する。
豊田氏は1982年3月のオープン戦で死球を受け、右手首を骨折し離脱。その間に頭角を現した平野に中堅手を奪われた。無理して復帰すると今度は右肩痛を発症した。中日は優勝したが、豊田氏の成績は打率.136、0本塁打、3打点。2勝4敗。中日が敗退した西武との日本シリーズもスタメン起用はなかった。4試合に出場し、第4戦では勝利に貢献する中前適時打を放つなど、6打数2安打1打点1四球と気を吐いたが「あまり覚えていないなぁ」とつぶやいた。
2勝2敗で迎えた日本シリーズ第5戦では、平野の右翼線への当たりが塁審に当たり中日がチャンスを逃すシーンもあった。審判は石コロと同じということで“石コロ事件”とも言われているが、この時、豊田氏はベンチにいた。「見ていましたし、(審判を)ヤジりましたよ。何て言ったかは忘れましたけどね。まぁ、でも、あのシリーズは西武が強かったなぁってくらいの印象しかないですね」と日本一を逃がし、むなしそうに話した。
1歳年上の平野が日本シリーズ6試合すべてにスタメン出場と、その差が大きくなったことも感じた。その状況は翌1983年も続いた。豊田氏の右肩の状態は悪いままだった。「あの時はやっぱり練習ができていなかった。みんなでやる練習はしましたけど、自分ひとりでの練習ができなかった。あと精神的にもう終わったなと……。平野さんの台頭で、俺はもう終わっちゃったなというような気持ちになったのは確かですね」。すべてが悪い方、悪い方へと流れていった。
球団社長から「若手が育ってきたし、次の年が最後だよ」
「僕みたいな体の小さいヤツが逃げていたら、仕事にならない。どんどん向かっていくので結構、デッドボールも食らうんですよ。それでまた自分の練習が疎かになったり、気持ちが吹っ飛んでしまっていた部分もありました」。精神的支柱でもあった明大の先輩であり、仲人でもあった星野仙一投手が、1982年の優勝を花道に現役を引退して近くにいなくなったのも、影響したのかもしれない。1983年、プロ5年目の豊田氏は、7月2日の大洋戦(ナゴヤ球場)に代打で三振に倒れたのを最後に2軍暮らしに突入。そのまま1軍に戻ることなく、34試合、20打数1安打、0本塁打、0打点のふがいない成績で終わった。
チームも前年の優勝から一転し、5位に低迷した。近藤貞雄監督は成績不振の責任をとって辞任。現役時代に毎日(現ロッテ)、阪神などで活躍し、「打撃の職人」と呼ばれた愛知・一宮市出身で元ロッテ監督の山内一弘氏が新監督に就任した。豊田氏は「監督も代わったし、このままではいけないって思った」という。1年間の不振でクビの危機も感じ取った。「球団社長に呼ばれて『豊田君、若手が育ってきたし、次の年が最後だよ』と言われました」と尻に火がつき、ようやく闘う気持ちを取り戻した。
山内体制になった秋季練習は大張り切りで臨んだという。「でもね、また骨折しちゃったんですよ。ナゴヤ球場のフェンスに激突してグラブをはめている方に体重がゴーンとかかってしまって、今度は左手首を……」。まるで何かにたたられているかのように怪我にまたもや邪魔をされた。どうにもこうにも流れが悪い。豊田氏にとってプロ5年目は、1安打に終わったシーズン中だけでなく、オフも試練が続いた。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)