中日指揮官がベンチで怒り 満塁弾でも“癪”に障った行動…謝罪後も残ったモヤモヤ

元中日・豊田氏が苦しんだ不調モード「状態がよくなかった」
再びの試練のあとに……。元中日外野手の豊田誠佑氏(名古屋市中川区・居酒屋「おちょうしもん」経営)は、プロ7年目の1985年、右翼のレギュラー争いを繰り広げた。春季キャンプ前に、田尾安志外野手が西武へトレード移籍し、巡ってきたチャンスだった。だが、調子は下降線をたどり、定位置獲得どころか2軍暮らしが増え、翌1986年も苦しい状況が続いた。そんな中、また野球人生の流れが変わった。チームに“あの人”が帰ってきた。
豊田氏はプロ5年目(1983年)に34試合で20打数1安打と極度の不振に陥ったが、練習を積み重ね、6年目は104試合に出場し、代打で4本塁打を放った。7年目はキャンプ前に右翼レギュラーだった田尾が杉本正投手、大石友好捕手との1対2の交換トレードで西武に移籍。空いたポジションを劔持貴寛外野手、藤波行雄外野手、石井昭男外野手、島田芳明外野手、川又米利内野手らと争うことになった。
レギュラー獲得のチャンスだった。開幕戦と2戦目(4月13、14日のヤクルト戦、ナゴヤ球場)の右翼スタメンには劔持が起用されたが、3戦目と4戦目(4月16、17日の大洋戦、横浜)は豊田氏が「2番・右翼」で出場した。だが、2試合とも無安打で結果を残せず、また代打に回された。シーズン初安打は4月28日の広島戦(ナゴヤ球場)。2-2の9回裏に代打で出て、小林誠二投手からサヨナラ打を放った。
「あれは泣けたなぁ。もう2軍に落とされるんじゃないかって時だったからね」と豊田氏は振り返ったが、そんな活躍も定位置取りにはつながらなかった。打撃はさらに不調モードへと突入。「どこか痛めていたんだったかなぁ。状態がよくなかったよね」。5月12日の広島戦(新大分)で北別府学投手に浴びせた代打適時打がシーズン2安打目。その後は「H」マークを点灯させられない日が続き、6月下旬に2軍落ちとなった。
7月下旬に1軍復帰したが、代打など3試合に出場しただけで2軍へUターン。次に1軍でプレーしたのは10月に入ってからだった。プロ7年目は52試合に出場し36打数4安打の打率.111、0本塁打、5打点。4安打のうち2安打は10月にマークしたもので、厳しいシーズンになってしまった。その状況は8年目(1986年)も変わらなかった。4月4日の開幕広島戦(広島)で、北別府から代打適時打を放ちスタートはよかったが、その後が続かなかった。
星野仙一氏が中日監督に就任「頑張らないといけないと思った」
5月18日の阪神戦(甲子園)では代打で出場し、そのまま右翼を守り、3-3の同点で迎えた9回表に左腕・山本和行投手から勝ち越し満塁本塁打をブチかました。「ベンチに戻ったら(監督の)山内(一弘)さんに怒られましたよ。その前に見逃せばフォアボールで押し出しとなる高めのボール球とかもファウルにしていたから。『ボールを打つことないんだぞ、わかったか!』って。俺は打ったからいいじゃないかって思いながら『すみません』って言いましたけどね」。
そんな劇的な一発が飛び出しても、打撃の調子はどうにも上向かなかった。チームも下位に低迷し、7月5日に山内監督の休養が発表され、高木守道コーチが監督代行を務めた。そんな中、豊田氏は、8月29日の広島戦(ナゴヤ)で途中出場し三振に倒れたのを最後に2軍落ちとなり、そのままシーズンを終えた。成績は62試合に出場し、45打数9安打の打率.200、1本塁打、5打点だった。
かなり険しい状況に追い込まれたが、豊田氏はここからまたよみがえった。9年目の1987年は107試合に出場して、124打数39安打で打率.315をマーク。終盤には「1番・中堅」で起用され結果も出した。このシーズンから、明大の先輩で、仲人でもある星野仙一氏が監督を務めた。「口うるさいし、細かいことまでガンガンくるし、俺なんかしょっちゅう怒られましたよ。見せしめみたいに(笑)。一塁まで全力で走っていても『全力で走れ!』って言われたりね。まぁ、僕はそういう役割だからしかたなかったんですけどね」。
星野氏は、現役を引退した1982年以来の中日復帰。帰ってきた“燃える男”に豊田氏も触発されて、奮い立った。「星野さんのためにも頑張らないといけないと思った」。成績不振に苦しんでいたところに、何かしらのスイッチが入ったのだろう。練習と気迫で自身を立て直した。星野体制になって中日の空気はガラッと変わったが、豊田氏にとっても“星野効果”は大きかったようだ。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)