「ナゴヤ球場は世界最高」元助っ人が語る中日愛 大恩人への尽きぬ感謝「一分一秒まで楽しかった」

元中日助っ人で、現在はブレーブスで指導者を務めるダーネル・コールズ氏【写真:黒澤崇】元中日助っ人で、現在はブレーブスで指導者を務めるダーネル・コールズ氏【写真:黒澤崇】

ナゴヤ球場最終年に大活躍…コールズ氏は現在ブレーブスで指導者

 現在、中日の2軍が使用しているナゴヤ球場は、1996年まで1軍の本拠地だった。その最後のシーズン、主に1番を打ちながら、シーズン29本塁打という異能の助っ人が現れ、チームを引っ張った。

 尽きぬ思い出を語ってくれたのは、現在はブレーブスの打撃コーチ補佐を務めるダーネル・コールズ氏。グラウンドが狭く、老朽化も進んでいたナゴヤ球場を「世界で最高だよ」と言う理由とは。さらに当時出会った人物が、後の指導者人生の指針にもなったという。

 日本で一番驚いたことは何ですか――。この質問に、コールズ氏は即答した。

「そうだね……。一番は、ホシノさんだよ」

 星野仙一氏の名前が出るのは想像していた。ただコールズ氏の中にあるのは、テレビでよく取り上げられたような、グラウンドで感情を爆発させる“闘将”の姿だけではない。助っ人外国人選手にとっては、別の一面があったのだという。

星野仙一氏は「とてもスペシャルな人物でした」

「彼は常に選手の面倒を見てくれて、私たちが日本での野球のやり方を理解するよう、細部までこだわって教えてくれました。一分一秒まで楽しかったですよ」

 星野監督のグラウンドでの采配を見れば、マリナーズやカブスを率いて通算1835勝を挙げたルー・ピネラ氏に似ていると感じた。「細かい部分まで目を配り、すべてがきちんと行われているかを自分の目で確かめ、どんなことがあっても自分の選手を擁護していました。時には審判に文句を付け、隠さずに態度で表していましたけどね。とてもスペシャルな人物でしたから、彼のためにプレーできたことをありがたく思っています」。選手とともに戦う姿が、心強かった。

審判に抗議する中日時代の星野仙一監督【写真提供:産経新聞社】審判に抗議する中日時代の星野仙一監督【写真提供:産経新聞社】

「彼自身がレジェンドでしたし、球界で大切な存在でした。オリンピック代表チームでも指揮を執りました。日本球界にとっての重要性というだけでも群を抜いていますし、彼ほどリスペクトを受けた人、私が大切だと思った人はいません。彼が私を、より良い人間に育ててくれたのです」

MLBのドラ1はなぜ中日へ…日本で習得した技術と哲学

 現在63歳のコールズ氏は、1980年のMLBドラフトでマリナーズから1巡目(全体6位)指名を受けプロ入り。83年にはメジャー昇格を果たし、86年にはタイガースで20本塁打した。ただそれ以降は、移籍を繰り返すジャーニーマンとなる。メジャーで13年間、のべ9球団でプレーしたのち、1996年に中日入りした。その後の人生を考えた時、日本行きの選択は正しかったという。

「時期が来たと思ったのです。それまでとは、何かが違うと感じていました。当時は分かりませんでしたが、日本に行ってホシノさんの下でプレーし、アメリカに戻ってみると、日本で学んだことを私自身のコーチング哲学に取り入れることができていました」

 中日では130試合に出場し打率.302、29本塁打、79打点。強打の三塁手として、巨人と終盤まで優勝を争い2位となったチームの力となった。当時のナゴヤ球場は現在とグラウンドの広さが違い、両翼が91.5メートルしかなかった。狭いスタンドはいつもファンでぎっしり埋まり、休日ともなれば午前中から行列ができるなど、独特の熱気を発していた。コールズ氏は「世界で最高の球場でしたね!」と笑う。

「小さい球場だから、それほど工夫を凝らさなくていいんです。小さな球場であれば、これなら行ったかなという当たりを飛ばせば、フェンスを越える可能性が高くなります。ナゴヤドームのような大きな球場では、打ち損じ、特にダイヤモンドの真ん中方向はヒットになりません。一塁線や三塁線への打球なら、もしかしたら(ヒットになる)確率はありますが、大抵は、しっかり捉えた打球を飛ばさなければならないのです」

中日時代のダーネル・コールズ氏【写真提供:産経新聞社】中日時代のダーネル・コールズ氏【写真提供:産経新聞社】

 日米の野球に、現在よりも距離があった時代だ。メジャーで実績があったコールズ氏も、日本で変化球の打ち方を学んだという。「日本は、重要な局面で変化球を多投する傾向が強かった。変化球を打つという点で、自分をはるかに優れた打者に育ててくれました。アメリカに戻った時、その部分でしっかり準備ができている打者になっていたと思います」。中日は1年限りで退団し、翌1997年はロッキーズへ。さらにマイク・グリーンウェルが退団した阪神に途中入団したものの、63試合で打率.242、7本塁打。中日時代のような成績は残せず現役引退した。

 その後はメジャー、マイナーの複数球団でコーチを務め、指導者としてのキャリアも20年を超える。日本での経験も引き出しの一つだ。「シンプルなアプローチ」と「細部にこだわること」が指導の柱になっている。「自分に対し、投手がどういう攻め方をしているか、注意を払っておかなければなりません。相手がチームとして持っている戦い方と、一人の選手に対する対応法は違うことがあるからです。走者がいると攻め方も変わるかもしれませんから、それも理解しておく必要があります。日本でプレーしたことで、細部まで気を配ることや、野球の小さな部分にこだわることを学びました」。

 コールズ氏が中日入りする直前の1995年、米国では野茂英雄氏がドジャースで大活躍。しかし、野手でメジャーリーグ入りを果たした選手はまだいない時代だった。それでも日本人野手の可能性を、当時から感じ取っていたという。

時代を先取り、恐怖の1番打者「任されたのはすごく嬉しかった」

「私がいた当時に、多くの好プレーヤーが揃っていました。1人選ばなければならないのであれば、やはりイチローがトップだったかなと思いますし、マツイ(=松井秀喜)が僅差の2位ですね。イチローはヒットを量産して、盗塁などで先の塁にも進んでいました。マツイはもちろん、東京ドームで毎日満員の観衆を前にプレーしていて、彼が打つホームランは美しかった。その後ヤンキースで素晴らしいキャリアを送ったことは、本当によかったと思います」。日本野球が世界とつながり始める時代を生きた選手だった。

 コールズ氏は当時、主に1番打者として起用された。今なら大谷翔平(ドジャース)のように、得点に結びつく可能性が高い長距離砲を1番に置くのは“常識”となっている。ただ当時は強打者は3~5番のクリーンアップに置くのが当たり前。コールズ氏は中日で出塁率.373、長打率.505、OPSにすれば.878と、現代の物差しで見ても、しっかり勝利に貢献していた。時代を先取りしていたといえる。

ブレーブスの打撃コーチ補佐を務めるダーネル・コールズ氏【写真:黒澤崇】ブレーブスの打撃コーチ補佐を務めるダーネル・コールズ氏【写真:黒澤崇】

「もう少し後の打順を打つ方が、ずっとありがたかったけれど……。現代の選手を見てもわかるとおり、基本的に1番から3番を打つのは、試合の中で打席に多く立ってもらいたい打者です。1番に置かれたのは、誰よりも多く打つ機会を持って欲しいと思ってくれていると捉えたので、任されたのはすごく嬉しかった。本当に大好きな打順でした。だって、投手が失投してそれを私がホームランにすれば、チームは1-0のリードを奪った状況になります。投手がリラックスして投げられますからね」

中日で活躍できた理由「リスペクトすること」

 なぜ日本でいきなり成功することができたのか。チームメートには、1994年から3年連続首位打者に輝くアロンゾ・パウエルがいた。「パウエルがいろいろなところに案内してくれました。素晴らしいチームメートだったし、彼は周囲とのコミュニケーションもすごく上手だったので、頼れる存在でした。今も連絡を取り合っていますよ」と“道しるべ”に感謝する。さらに、野球選手が海外で活躍するために必要だと確信していることがある。

「まず現地の習慣を理解し、次にそれをリスペクトすること。いろいろな違いがありますから。食べ物、時間帯など多くの差があります。ですが、野球は同じです。何でもないゴロを捕り、ファーストへ投げる。外野からの送球も、正しい位置にいる中継に投げる。そこはすべて同じなんです。一旦試合が始まれば、問題はない。けれどいろいろなことが少しずつ違うのだということを、理解しなければならないのです」

 中日の低迷が続いて久しい。2013年からの13年間で、Aクラスは2020年の一度だけだ。今季も4月から2桁の借金を抱えるなど、苦境の中にある。そう伝えるとコールズ氏は力強く口にした。「中日ドラゴンズが、日本野球界において最高の球団のひとつであることは間違いありません。ジャイアンツと肩を並べる存在でしょう」。続けて現在ユニホームを着ている“後輩”とファンに、力強いメッセージをくれた。

「ドラゴンズのユニフォームを着れば、球団の偉大さ、ファンの素晴らしさを感じられると思います。ビジターの試合でも、遠征先でドラゴンズファンの大きなサポートを受けました。すべてが最高だと感じられる瞬間でした。ですから、今のチーム、選手たちへのメッセージは『今という時間に感謝して、経験していることを楽しんで』になります。ドラゴンズは、プレーする選手にとって最高の球団なのですから」

 今年から、バンテリンドームのグラウンドが本塁打テラスの新設によって狭くなったと伝えると、コールズ氏は「私たちの時代のように、打者に有利になるんだね」と笑った。“強竜打線”の一員として戦った助っ人は今も、古巣に温かい視線を向けている。

(羽鳥慶太 / Keita Hatori)

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