中日から無情の通告「2、3日は泣いた」 闘将の罵声がきっかけ…突然始まった“見習い”生活

元中日・豊田誠佑氏【写真:山口真司】
元中日・豊田誠佑氏【写真:山口真司】

日本Sで東尾修から安打…「まだ1年くらいできる」と思い車を購入

「終わり」は突然やってきた。元中日外野手の豊田誠佑氏(名古屋市中川区・居酒屋「おちょうしもん」経営)は1988年限りで現役を引退した。ドラゴンズ一筋10年間で区切りとなったが、当初は“プロ11年目”に向けて、やる気満々だったという。それが幻になった。選手を続けることができなかった。浜松で行われた秋季キャンプメンバーに入って参加したところで、星野仙一監督から“引退勧告”されたという。

 1988年は中日がセ・リーグを制した。プロ10年目の豊田氏は主に代打、守備要員として88試合、84打数16安打の成績ながら1軍でチームを支え、V戦士になった。1勝4敗で敗れた西武との日本シリーズでもベンチ入りし、第2戦、第4戦、第5戦に途中出場。10月27日の第5戦(西武)では6回から左翼守備につき、9回の打席で東尾修投手から右前打を放った。「日本シリーズでもヒットを打ったし、まだ1年くらいできるだろうと思って車も買ったんですよ」。

 この年で現役を終えるとは、その時点は全く考えていなかった。「シリーズが終わって(選手宿舎があった)立川から東京まで(JR)中央線で移動した時に、(星野)監督と一緒になって、隣でいろいろ話をしたけど、僕がやめる話なんて出なかった。『やっぱり西武は強かったなぁ』とか、そういう話しかしなかったですからね」。その後に発表された浜松秋季キャンプメンバーにも名前があった。“11年目シーズン”へまた気合を入れ直して浜松に入った。例年と同じ秋の流れのはずだった。

 しかし、状況が一変した。「普通に練習していたんですよ。アップもしたし、走塁練習もしていたんですよ。そしたら、星野さんに『お前、もうどけ!』って言われたんですよ、いきなり」。何が何だかわからなかった。「その後はよく覚えていないけど、ボーッと突っ立っていたと思う」という。「どういう意味なんだろうと考えていたら、その日の夜かな。(外野守備走塁コーチの)島野(育夫)さんに呼ばれたんです」。

 そこで待っていたのが“引退”の2文字。「島野さんに『若手に(立場を)譲ってやってくれ。奥さんをここ(浜松)に呼んでほしい。話をするから』って言われました」。星野監督にしてみれば、明大のかわいい後輩であり、初めて媒酌人も務めた豊田氏にできることならユニホームを着続けさせたいとの思いもあった。練習中の「もうどけ!」は星野流の言い回し。そんな本心を悟られないように、敢えて突き放しての“引退勧告”だった。

監督付の見習いで“お世話係”に…翌1989年から2軍外野守備走塁コーチ就任

 豊田氏は「それから2、3日は泣いていました」と明かす。だが、もはやどうすることもできなかった。「次の日から練習に出ずに、監督の車を洗ったり、監督付の仕事の見習いみたいなことをやっていましたしね。島野さんが女房にも説明してくれたし、(辞めても)そんな仕事があるってことだし、もうしょうがないなと思いました」と現役引退を決断した。

 明大3年(1977年)春に法大・江川卓投手から8打数7安打をマークして以来、絶えず「江川キラー」として注目を集めた豊田氏のプロ10年間の通算成績は766試合、打率.245、13本塁打、84打点、24盗塁。「(172センチ、73キロの)こんなちっちゃい体で、よく頑張ったかなと……。まぁ、満足しています」と話す。

 中堅レギュラー獲り目前だったプロ4年目、1982年3月のオープン戦で死球を受けて右手首を骨折して離脱。その間に台頭した平野謙外野手にポジションを取られたのは痛かったが「でも、あの時にレギュラーになっていったら、鼻がこーんなに高くなって、逆によくなかったと思う。天狗にならなくてよかった。僕はそう思っています」とも口にした。

 豊田氏はそのまま1988年末まで星野監督付見習いとして働き、年が明けて1989年からは2軍外野守備走塁コーチに就任した。監督付はかなりの激務だったようで「星野さんから離れられて、ホッとしましたよ」と苦笑いも浮かべたが、こうして中日での指導者人生がスタートした。背番号は「25」から「75」に変わった。当時32歳。若き熱血コーチの誕生だった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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