「何を言ってもダメ」 指揮官の怒号、重圧に止まらぬ下痢…中日コーチが過ごした苦悩の日々

元中日・豊田誠佑氏【写真:山口真司】
元中日・豊田誠佑氏【写真:山口真司】

目をかけた矢野と猛練習…阪神移籍で才能開花も「よかったですよね」

 神経をすり減らした。元中日外野手の豊田誠佑氏(名古屋市中川区・居酒屋「おちょうしもん」経営)は1989年から1997年まで9シーズン連続で中日コーチを務めた。そのうち6年間は2軍で、1990年ドラフト2位入団の矢野輝弘捕手(元中日、阪神)をマンツーマンで指導するなど、若手育成に励んだ。ラスト2年は星野仙一監督の下で1軍の三塁ベースコーチも経験。「プレッシャーで大変でした」と苦笑した。

 1988年の浜松秋季キャンプで、豊田氏は星野監督らから“引退勧告”され、現役生活にピリオドを打った。まだ辞めたくなかったが、気持ちを切り替えるしかなかった。1989年からは2軍外野守備走塁コーチに就任した。当時、32歳。指導者としてのイロハは尊敬する1軍の島野育夫外野守備走塁コーチに教えてもらったという。自身も勉強しながら、フリー打撃で登板し、汗も流しながら若手たちに向き合った。

 1978年ドラフト外で明治大から中日入りした豊田氏は1年目(1979年)にプロとのレベル差に打ちひしがれたが、当時1軍守備コーチの一枝修平氏が時間ある限り、練習に付き合ってくれて、壁を乗り越えた。「やっぱり振ったもん勝ちだと思いました」。そんな自身の経験も踏まえて、熱い指導を繰り広げた。指導者2年目の1990年からは2軍打撃コーチとなった。その年のドラフト2位で東北福祉大から入団してきたのが矢野だった。

「後になって矢野が僕との練習のことをマスコミにも話してくれたみたいですけどね」と豊田氏は照れたが、それこそ、かつて一枝コーチが自分にしてくれたように、朝も夜も時間があれば、名古屋市西区堀越にあった中日屋内練習場で矢野の練習に付き合った。「ガンガンやりましたねぇ。キャッチャーは中村(武志)がいたから、矢野はなかなか出られなかったでしょ。だから、その間にね。『今やっていたら、どこへ行ってもやれるぞ』とか言ってね」。

 中村の壁は分厚く、中日では2番手捕手の立場で、時には外野で起用されたこともあった矢野は、くしくも豊田氏がコーチを退任する1997年オフに久慈照嘉内野手、関川浩一捕手との交換トレードで大豊泰昭内野手とともに阪神に移籍。球界を代表する捕手にまで成長し、引退後は阪神監督も務めた。「阪神に行ったら、レギュラーになったし、よかったですよね」と、豊田氏は若い頃の矢野を思い出しながら、しみじみと話した。

 コーチとして豊田氏が関わった選手は数多い。1986年ドラフト2位で愛工大名電から入団し、なかなか1軍の壁を破れなかった山崎武司捕手(のちに外野手)もそう。「(1996年に1軍で)ホームラン王を取ってくれたのはうれしかったですよ」と表情を崩した。中日が高木守道監督体制となった1992年は1軍打撃コーチ補佐だったが、大豊の指導を巡って徳武定之ヘッド兼打撃コーチと衝突したこともあったという。

 まだ大豊が1本足打法に本格挑戦していない頃の話。「その時も大豊は足をちょっと上げていたんだけど、徳武さんに『あいつは(ボール球でも)何でも振ってしまうから足を上げさせないでくれ』って言われたんです。でも、アイツは頑固だし、王(貞治)さんを尊敬しているから『言っても無駄だと思います』と言って……」。豊田氏の予想通り、大豊はその指示を拒否。オフには逆に完全1本足打法となり、1994年には本塁打王と打点王に2冠に輝いたから、なおさら忘れられない一件のようだ。

「何で回さなかったんや!」「サイン、わかっているのかぁ!」…星野監督の“怒号”

 そんなコーチ時代でもっともハードだったのは、1軍外野守備コーチだった1996年と1997年の2年間だ。1987年から1991年まで中日監督を務めた星野仙一氏が1996年にカムバック。第2期星野政権がスタートし、豊田氏は1軍に上がり、三塁ベースコーチを任された。そのプレッシャーはハンパではなかったようで「開幕前なんて、精神的なもので下痢がとまらなくなって、もう何ともならなかった」という。

 なにしろ闘将・星野監督は選手以上にコーチに対しても厳しいことで知られている。特に中日が最下位に沈んだナゴヤドーム元年の1997年は大変だったようで「もうガンガン、ガンガン、言われましたからね」と豊田氏は明かし、こう続けた。

「セカンドランナーがいて(打者が)ライト前に打つじゃないですか。(走者の)スタートも見て、100%(セーフ)ならもちろん回すけど、5分5分で次が3、4、5番の中心打者だったら、一、三塁で攻めた方が点を取りやすいじゃないですか。で、イチかバチかで回すより止めるでしょ。そしたらね、あの頃、必ずと言っていいくらい次のバッターがゲッツーだったんです。チームの勢いがない時ってそんな感じだったんですよねぇ」。そして叱責が待っていた。

「監督に『お前! 何で回さなかったんや!』って言われて『(二塁走者の)スタートがちょっと遅れて5分5分じゃ回せません。次が3番、4番だったんで』と説明したら『そんなに遅れるんだったら練習させろ! 走塁練習させろ!』って。もう何を言っても駄目でした。あの頃はパウエル、大豊、中村とか足が遅いヤツばっかり。簡単に回せるわけないじゃん、って思いましたけどね」。結果論で言われる立場のつらさもたっぷり味わったわけだ。

 それから笑いながら、こんな話も。「サインを変えた時があったんですけど、監督が僕に出したサインは、どう考えても前のサインでヒットエンドランだったんですよ。でも、新しいサインでは違うから出せないじゃないですか。それこそ間違っていたら怒られますから。で、チェンジになってベンチに戻ったら『お前! サイン、わかっているのかぁ!』って言うわけですよ。『監督! サインは昨日変えたばかりですよ』と言ったら、スーッとベンチの後ろの方に行っちゃいましたけどね」。

 話しだしたらキリがないくらい、いろんなことがあったのだろう。豊田氏は「まぁ、いつも怒られてばかりでしたもん。参っちゃいましたよ」と言いながらも、今はそれらのすべてが思い出になっている。責任ある立場で、プレッシャーと戦ったのも、振り返れば、貴重な経験だったし、厳格な星野体制で学んだ部分もたくさんあったのは言うまでもない。

 1997年シーズンが最下位に終わったことで、中日コーチ陣の刷新が行われ、豊田氏もその年限りで退任し、編成部に異動となった。1979年のプロ1年目以来、着続けたユニホームをついに脱ぐことになり「正直、寂しい思いはありました」と言う。「でもね、スカウトも面白いかなぁって思っていたんですよ」と気持ちを切り替えた。ドラゴンズ一筋の豊田氏のプロ野球人生。また違う形で中日を支えることになった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

RECOMMEND

KEYWORD

CATEGORY