長嶋茂雄が「一番楽しかった」と振り返った12年 “弟分”に明かした国民的スターの本音

V9戦士の柴田勲氏が振り返る、長嶋茂雄さんの思い出
“ミスタープロ野球”こと長嶋茂雄さんが死去してから、6月3日で1年となる。1965年からの9連覇に主力として貢献し、スイッチヒッター初の通算2000安打、セ・リーグ最多となる通算579盗塁をマークした柴田勲氏(82歳)は、長嶋さんの8歳年下の後輩だ。「あの長嶋さんがいないのか……。亡くなられて、もう1年経つのか。時が過ぎるのは早いねぇ」。“赤い手袋”の愛称で親しまれた柴田氏に、長嶋さんの思い出を伺った。
柴田氏にとって長嶋さんが「憧れの人」となったのは1958年。東京六大学野球のスターだった長嶋さんが立大から巨人に入団した年だ。長嶋さんはプロ1年目から本塁打と打点のタイトルを獲得し、新人王も受賞。2年目には天覧試合でサヨナラ本塁打を放つなど、走攻守すべてに華があった。
「僕は横浜出身で、もともと巨人ファンでした。長嶋さんが入団された時は、まだ中学生。ちょうどその頃からテレビで野球が放送されるようになった。長嶋さんの一挙手一投足に『わー、カッコいい人がいるなぁ』って魅了されました。その時は、まさか自分が巨人に入って長嶋さんと一緒にプレーできるようになるなんて、夢にも考えなかったよね。夢のまた夢」
柴田氏は法政二高(神奈川)に進学すると「夢」を現実へと手繰り寄せた。エースとして2年夏、3年春と甲子園を連覇。ドラフト制度の導入前で、甲子園の優勝投手をめぐり、激しい争奪戦が繰り広げられた。柴田氏が選んだのはジャイアンツ。理由はもちろん「長嶋さんですよ」。
巨人との契約が決まった高3の秋、柴田氏は「憧れの人」と対面した。1961年、巨人は日本シリーズで南海と激突。球団から本拠地である後楽園球場に招待された。試合前に球場内の応接室に足を踏み入れると、ユニホーム姿の川上哲治監督、別所毅彦投手コーチ、そして長嶋さんが待ち構えていた。
「4人で写真を撮りました。僕は学生服。長嶋さんはテレビでしか見た事がなかったから『あー、実物の長嶋さんだ。やっぱりカッコいい』と痺れました。長嶋さんは当時としては背が高い方で、スラっとしていた。声も掛けていただいたのかなぁ。舞い上がって覚えてないんですよ。選手は長嶋さんだけがいらした。きっと記念の写真撮影のために、川上さんが長嶋さんに『ちょっと来てやってくれ』と仰ってくれたのだと思います」

「長嶋さんからしたら弟分。気を遣わないでよかったのでしょう」
柴田氏は投手で入団も1年目で断念した。スイッチヒッターの外野手に転向し、俊足・巧打・堅守で、長嶋さんや王貞治内野手(現ソフトバンク球団会長)らとともにV9の偉業を成し遂げた。長嶋さんは1974年の現役引退後、そのまま監督に就任し、1980年まで指揮を執った。柴田氏は1981年に引退し、1985年シーズン限りで巨人のコーチも退いた。長嶋さんは1993年から再び巨人の監督を務めるのだが、1期目から2期目の間を「野球から離れて充電期間だ」と表現していたという。
「僕は野球でもプライベートでも、長嶋さんと一番お付き合いをさせてもらったのでは。長嶋さんの充電期間には、ゴルフによく行きました。前の晩にいきなり『行くぞ』と電話があったりしてね。僕も『はい、分かりました』と何でも言う事を聞きました。食事も『中華を食べに行こう』『きょうはイタリアンだ』と誘ってもらいました。長嶋さんからしたら弟分みたいで、気を遣わないでよかったのでしょう」
長嶋さんの「充電期間」は球界の枠を大きく越え、自由奔放だった。「色んな方々と対談されたりして、文化人のようでしたね。財界、芸能界、他のスポーツ界だったり」。柴田氏の胸には、後に長嶋さんが漏らした「オイ柴田、あの頃が一番楽しかったよ」という言葉が、いまも響いている。「長嶋さんにとって勝敗、成績が関係ない時期でしたから。選手、監督の時は色々あったでしょうしね」。常に結果を求められてきた国民的スターの心中を察した。
「初めて長嶋さんとお会いしたのは、もう65年も前になるんですね」。柴田氏が、あの感激の瞬間を忘れる事はない。
(西村大輔 / Taisuke Nishimura)