車に跳ねられ覚悟した死 “生かされた数cm”…つながった甲子園制覇&ドラ1指名

元広島の西田真二氏が振り返る、九死に一生の出来事
PL学園でも、法大でも、広島でも日本一を経験したのが西田真二氏(野球評論家)だ。1995年の現役引退後も、四国アイランドリーグ・香川オリーブガイナーズ監督として独立リーグ日本一を成し遂げるなど輝かしい実績を積み重ねた。2025年限りで6年間務めた社会人野球・セガサミー監督を退任し、2026年4月には古巣・香川の球団アドバイザーに就任。さらに野球人生を歩んでいるが、振り返れば6歳の時に「生かされた」のが始まりだったという。
西田氏は、1978年の夏の甲子園でPL学園のエース兼4番打者として全国制覇。準決勝・中京戦は0-4から9回裏に追いつき、延長12回にサヨナラ勝利。決勝の高知商戦も0-2の9回裏に3点を奪ってサヨナラ勝ちと、ミラクル「逆転のPL」の主軸として名を馳せた。法大では1979年の1年秋に野手に転向し、2年春から外野のレギュラーとして活躍。東京六大学リーグ優勝、明治神宮大会優勝、大学日本選手権優勝の立役者の一人にもなった。
1982年ドラフト1位で広島に入団。代打中心ながら、2年目(1984年)の開幕戦(4月6日中日戦、広島)では代打サヨナラ打を放つなど、インパクトある働きが目立った。スタメンでも結果を出し、9年目の1991年は4番打者としてリーグ優勝に貢献した。引退後も指導者として手腕を発揮。2007年に四国アイランドリーグ・香川監督に就任し、2019年に退任するまで5度のリーグ優勝、3度の独立リーグ日本一を達成した。
そんな西田氏が明かしたのは6歳の時の出来事だ。「僕はあの時、死んだと思いました」。1960年8月3日生まれ、和歌山市出身。「友達とチャンバラごっこをしていて、道路に飛び出して車にはねられたんです。ライトバンにね……。(運転手の)お兄さんは悪くない。僕が悪かったんです。バーンとぶつかってね。飛んだ。ものすごく飛んだと思う。その記憶はすごくある。何か、全部が逆さまに見えてね。病院に運ばれて、4か月入院しました」。
左足を骨折したが、実際は危機一髪だったという。「飛んで、落ちて、頭を(地面に)打ったんです。後頭部を打って、外に血が出た。これが脳内出血だったら、たぶん、亡くなっていたんじゃないかってことです。何かね、あの時に生かされたなってところはあるんですよ。それも運命だったというのかなぁ。紙一重ですよね。僕の野球人生も何度も怪我があって、紙一重でしたけど、思えば、あの時からそうなのかなぁってね。あの時に骨折で済んでいなかったら、その後の優勝とかもないわけですからね」
小学4年の頃から始めた野球「面白そうだなと思って」
この大事故を経て、西田氏は野球に取り組むようになったという。「テレビでは王(貞治)さんや長嶋(茂雄)さんの“ON”を見ていたし、おじいちゃんとキャッチボールをしたりね。小学校に貴志少年野球団というのがあって面白そうだなと思って、小4の始まりくらいかな。『野球部に入ります』って監督に言ったら、いきなり背番号13のユニホームをいただいたんですよ」。それが野球人生のスタートだった。
「入部を決めて家に帰ったら、親父に『入ったんならやめるなよ』って言われてね。翌日から毎日、強制的に朝6時から4キロくらい走らされました。家の近くをね。裏がお寺で、山もあったんで、その山を登ったりもしました。親父も和歌山市役所で野球をしていたんです。初めは朝走るのも嫌々やっていたんですけど、徐々に体力がついてきて、それも楽になってきた。なんか達成感というか、楽しくなった。まぁ伸びる段階だったんでしょうね」
小5からは父・嘉平さんが貴志少年野球団の監督に就任。西田氏はその頃からエースになった。「まぁ、もともとピッチャー向きの性格だったんでね。でも親父が監督だったのは、その当時は嫌でしたね。はっきり言ってやりづらかった。親父も他の子どもを預かっているから、いろんなことが倍以上、僕にはね返ってくるわけです。そりゃあ、優しい部分もありましたけどね」。6歳時の交通事故も乗り越えて「生かされた」という西田氏は、父の熱い指導も受けながら、どんどん“野球力”をつけていった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)