PL学園進学も…厳格な上下関係「言ったらキリがない」 応援できなかった背中「早く負けてくれ」

PL学園に進学した西田真二氏を待っていた怪我との闘い
元広島外野手の西田真二氏(野球評論家、香川オリーブガイナーズアドバイザー)は1976年、PL学園に進学した。同級生には木戸克彦捕手(元阪神)、金石昭人投手(元広島、日本ハム、巨人)、谷松浩之外野手(元ヤクルト)らがいて全国制覇するために集められたメンバーと言われた。その中で切磋琢磨し、高校3年(1978年)夏には甲子園優勝を成し遂げたが、そこまでには怪我との闘いもあった。2年時には「第五腰椎分離症」で、投球不能状態に陥ったという。
PL学園の伝説のスカウトと呼ばれた井元俊秀氏から熱烈勧誘を受け、PL行きを決断した西田氏は、和歌山市立河西中3年の3学期にPL学園中に転校し、親元を離れての寮生活をスタートさせた。「中3の時は楠寮で一般生徒と一緒に暮らしました。朝の6時くらいかな、『起床!』ってスピーカーフォンが流れてくる。味噌汁と何かちょっと魚とご飯の朝食をとって、掃除したり……。軍隊みたいな感じでしたけどね」。
高校になるとまた違う寮へ。「PLの寮生活については、後輩たちがいろんなことをYouTubeなどで話しているけど、まぁ時代、時代でね……。我々が高校1年生の途中までは野球部の寮がまだなかったので、それまでは第2錬成道場というところで……。2階にあるんですが、大本庁(教団本部)からトラックで食事が運ばれてくるので、1年生は1階までそれを取りにいき2階に持っていったり、お風呂も大本庁まで走って行ったり……」。
野球部の研志寮は1977年1月に落成。「新しい寮での思い出もたくさんありますよ。まぁ上下関係もあったし、言ったらキリがないけど。ただ言えることは、1年生は雑務など本当にやることが多かったってこと。今の時代は3年生も一緒になって雑用をやったりするでしょ。あれが本当は理想だったんだろうけどね」。そんなグラウンド外の“仕事”もこなしながら、自身のレベルアップを目指す日々だった。
1年夏はスタンドでの応援部隊。「3年生にはきつくされたこともあったし、内心は早く負けてくれないかなと思った」と笑いながら明かしたが、この夏のPL学園はなかなか負けなかった。大阪大会を制して、甲子園では決勝進出。桜美林に敗れて準優勝だった。「振り返れば、勝ち上がっていく先輩たちの姿を見られてよかったと思う。自分も続こうと思いましたから」。1年秋からは外野手兼投手としてメンバー入りを果たした。
新チームでエースとして期待も「1か月くらい投げられなかった」
しかし、秋季大阪大会は準決勝で大鉄(現・阪南大高)に敗れ、選抜出場の夢は絶たれた。巻き返しを期した1977年の2年夏は、大阪大会準決勝で北陽(現・関大北陽)に2-5で敗退し、またしても甲子園切符を掴めなかった。そして西田氏の世代が最上級生となる新チームとなった。エースとして期待されたが、大きな試練に見舞われた。「第五腰椎分離症になったんです。腰が痛くて歯も磨けなかった。あれはしんどかった。1か月くらい投げられなかったんです」。
救われたのはPL学園の医療体制がしっかりしていたことだ。「PLは、そういうところも結構進んでいたのでね。トレーナーの方などに、いろいろと助けてもらいました。僕も“仕方ないな、治してまた頑張ろう”と割り切った。鍼治療の先生のところにも連れていってもらったりして、何とか手術をせず、秋季大会に間に合ったんです」。そんな病み上がりのエース・西田氏の活躍もあって、PL学園は秋季大阪大会を1位で通過した。
近畿大会では準決勝で、1学年下の牛島和彦投手(元中日、ロッテ)、香川伸行捕手(元南海・ダイエー)を擁する浪商(現・大体大浪商)に6-8で逆転負け。「(ドカベン)香川にホームランを打たれたのは覚えている。確かファーストが小早川(毅彦内野手、元広島、ヤクルト)でね、ファーストファウルフライを落としやがったんですよ(笑)。その後、ドカに打たれた」と話したが、ベスト4入りしたことで、翌1978年春のセンバツ出場は確実となった。
怪我を乗り越えての目標達成。「あの体で完投、完投とよく投げたと思います。当時は必死でしたけど、今思えば、周りに支えられてのことでしたね」。いざ、甲子園へ。西田氏は腕を撫して、ついに夢の聖地へ足を踏み入れた。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)