甲子園Vの裏で13連投の酷使「僕は消耗しまくり」 中継に映った“謎のビンタ”

大阪大会は8試合に先発登板…マウンドに立たなかったのは2イニング
自分で自分に気合を入れた。広島で代打でもスタメンでも活躍した西田真二氏(野球評論家、香川オリーブガイナーズアドバイザー)は、1978年夏の甲子園を制したPL学園(大阪)のエース兼4番打者としても知られた。準決勝、決勝は2試合連続のミラクル勝利。「逆転のPL」と呼ばれたチームの大黒柱だった。大阪大会、甲子園大会と投げ続けた思い出いっぱいの高校生活最後の夏。「消耗しまくりました」と苦笑した。
PL学園は1978年春の選抜準々決勝で箕島(和歌山)に敗退。エースとしてフル回転した西田氏は、その後の春の大阪大会などの登板を回避した。「もう(甲子園に)関係のない大会だったし、監督とかコーチ陣が“あれだけ投げているんだから”っていうことで、いろいろと考えがあったと思います。まぁ、疲労は多少ありましたけどね」。肩、肘、腰などのケアにも時間をかけて、集大成の夏に備えたという。
最後の夏の大阪大会、西田氏は1回戦の富田林戦から決勝の近大付戦まで全8試合に先発した。2回戦の豊中戦と5回戦の守口戦で金石昭人投手(元広島、日本ハム、巨人)がそれぞれ1イニングずつリリーフ登板した以外は、すべてひとりで投げ抜いた。3回戦の上宮戦は1-0。「あれは苦戦しましたね。覚えています。でも紙一重で勝つってあたりがやっぱり当時、強かったんじゃないですかねぇ。まぁ、僕は消耗しまくりましたけどね」と笑った。
「その当時は、やっぱり性格が本当にピッチャーだったんでね。“何くそ”っていうか、そんな感じで投げていた。でも、それでいて冷静だった。高低、両サイドを投げ分けたというか。まぁ木戸(克彦捕手、元阪神)がうまくリードしてくれたんじゃないかな。ちょっとサイド気味から投げたり、スローカーブを投げたりもした。あとはシュートと真っ直ぐ。右バッターにインサイドを意識させるような球を、しっかり投げなさい、と言われていました」
“ひとりビンタ”の真相…「自然とああなった。ナチュラルにね」
大阪大会決勝の近大付戦は9-3で勝って春夏連続甲子園出場を決めた。それでも西田氏は「ホームランを2発打たれました。場外に打たれた、松嶋(善久投手、1978年近鉄ドラフト外)にね」と悔しそうに話す。「あの時の近大付はキャプテンの神田(大輔内野手)も南海に(1978年ドラフト外で)入ったし、金田(進捕手)はのちに(丸善石油を経て1981年ドラフト4位で)中日だし、いい選手がいたんだよ」と振り返った。
その上で西田氏はPLのチームメートに感謝する。「サードの戎(繁利)、ショート・山西(徹)、セカンド・中村博光……。とにかく、みんなよく守ってくれたんですよ。守りがよかったから勝てたんです」。西田氏らの世代は高校入学時から「全国制覇するために集められた」と言われていたが、そんな面々がまさに一丸となって“強いPL”を築き上げ、大阪大会を制して、夏の甲子園に臨んだ。
西田氏は、大阪大会で「消耗した」体にムチ打って、さらにフル回転した。甲子園では決勝までの全5試合をすべて完投。初戦の2回戦は日川(山梨)に5-2、3回戦は自身が一発を放って熊本工大高(熊本)に2-0、準々決勝は県岐阜商(岐阜)に1-0と2試合連続完封で駒を進めた。そんな中で、テレビ中継で大写しにされるなど注目を集めたのが、ピンチなどを迎えると、マウンド上で頬を自らで叩く“ひとりビンタ”シーンだ。
「ちょっと(自分に)気合を入れた。自然とああなった。ナチュラルにね」と話したが、それも西田氏流の甲子園にかける意気込みの表れだったのは言うまでもない。そして、こう続けた。「PL(処世訓)には『感情に走れば自己を失う』というものもある。自己コントロールできるっていうね。(PLナインの)みんなが最後まで諦めなかった部分もそういうところからも出たと思う」。そんな中で、伝説の準決勝、決勝のミラクル逆転劇も生まれたわけだ。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)