無欲だったドラ1、怪我が再発も「まぁいいか」 2軍降格を覚悟も…怪物撃ちで手にした“仕事場”

充実した広島の外野陣、西田氏が抱えた弱点
欲がなかった。1982年の広島ドラフト1位外野手・西田真二氏(野球評論家、香川オリーブガイナーズアドバイザー)は代打からプロ人生をスタートさせた。「腰痛もあったし、守りがいい方じゃなかったんでね」。とはいえガムシャラにレギュラー取りを目指していたわけではなく「あの時は“代打でいいか”ってなっていた。まだ若かったのにね」と苦笑する。プロ5打席目に巨人・江川卓投手から初安打を放ったが「打ってなかったら2軍だったでしょうね」と話した。
法大からドラ1入団の西田氏の背番号は28に決まった。「一応、希望としては大学の時に24と28だったんで……。24は“ニシ”でいいなぁと思ったけど、24は大野(豊)さんだったからね。28はちょうど空いていたし、衣笠(祥雄)さんも若い時につけられたってことでね」。即戦力外野手と期待されてのカープ入り。練習がハードな球団と噂されており「どんなものなのかなぁ、とは思いました」と言う。
「要領がわからなかったし、初めはやらされているって感じだったけど、そんなにしんどいとは思わなかった」と西田氏は話したが、その一方で「腰痛があったのでね。その辺は気にしました」と明かす。PL学園2年(1977年)夏に「第五腰椎分離症」を発症。懸命の治療でプレーできるまでに回復させたが、完治したわけではなかった。「毎年、梅雨の時期になると重くなるとかもあった」と言い、法大時代も再発させないように神経をとがらせていたそうだ。
それはプロ入りしてからもそう。まずは腰に負担をかけないことが第一で「いかに楽して打てるか、ということを考えた」と西田氏は語る。プロ1年目のキャンプ、オープン戦はそんな背景もあって出遅れて「開幕して最初はちょっと2軍にいた」。その後1軍昇格も立場は代打要員だった。だが「あの頃はそれでも“まぁいいかな”って思っていた」。法大の主力打者でドラフト1位でも「まだ若かったのに、僕には何か欲がなかったんですよねぇ」とも口にした。
「本当なら“最初からクリーンアップを打つぞ”みたいな気持ちになるものかもしれないけど、やっぱり自分の守備面とかいろいろ考えたらね。その当時のカープの外野はマメ(長嶋清幸外野手)もうまかったし、山崎(隆造)さんもそうだし、山本浩二さんもいたし……」。プロ初出場は1983年4月17日の中日戦(広島)。9回裏に代打で起用され、中日・牛島和彦投手と対戦して三振に倒れた。その後、3試合に出場し、3打席を与えられたが、いずれも凡退だった。

法大の先輩・江川からプロ初安打「手を抜いてくれたんじゃ」
待望の初安打はプロ5打席目。5月10日の巨人戦(広島)に代打で出て巨人・江川投手から記録した。「ライト線に打った。真っ直ぐ。ちょっと抜いたような球だった。江川さんは法政の先輩ですからね。バッターボックスに入って挨拶しました。そしたら、スーッと投げてきたような気がしたんですけどね。だって、球が意外に……。手を抜いてくれたんじゃないですかねぇ」と西田氏はメモリアル打を笑いながら振り返って、さらに話を続けた。
「あの時、ヒットを打たなかったら、古葉(竹識)監督は僕を2軍に落としたんじゃないかと思う。当時は同じような立場で定岡(徹久)とか、及川(美喜男)さんとか、斉藤(浩行)とかがいたんでね。結果を出し続けなければ1軍に残れない。代打は数少ないチャンスを生かさないといけない。5打席くらいしかもらえないから(その間に)ヒットがでなかったら……」。巨人のエース・江川からのプロ初安打は「代打・西田」をアピールする一打になった。
6月18日の中日戦(広島)では郭源治投手からプロ1号となる代打本塁打を放った。「(法大の先輩でもある)山本浩二さんに『ホームランを打ったらスーツを作ってやる』って言われていて、スリーピースの、かなりいいものを作ってもらいました。本当に後輩思いの方で……。いい思い出です」。1年目は59試合に出て、68打数16安打(打率.235)、4本塁打、13打点。「欲がない」ドラフト1位は、ひと振り稼業でカープでの立場を確立させていった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)