首脳陣の打診も拒否「僕はいいです」 自ら捨てた勲章…悔やんだ“決断”「自業自得」

元広島の西田氏は4番打者としてリーグ優勝に貢献
一時は首位打者候補と騒がれたが……。元広島外野手の西田真二氏(野球評論家、香川オリーブガイナーズアドバイザー)は、1991年のリーグ優勝に4番打者として貢献した。この年の4月、同い年の“炎のストッパー”津田恒実投手が病に倒れて離脱。「津田のためにも」とチーム一丸となったシーズン。102試合に出場し、打率.289、7本塁打、51打点だったが、悔やまれるのは終盤に調子を落として規定打席到達を逃したこと。「自業自得」と自虐気味に話した。
1991年、プロ9年目の西田氏は代打からのスタートだった。前年(1990年)にスタメン機会を増やしながら、また振り出しに戻った形だったが、すぐに巻き返した。開幕2戦目(4月9日の中日戦、ナゴヤ球場)で代打2点三塁打を放ち勢いに乗ると、4月21日の大洋戦(横浜)まで6打席連続で出塁(3打数3安打3四球)するなど首脳陣へのアピールに成功。再び、スタメン起用がメインになった。
シーズン中盤からは4番を務めるようになった。「4番・左翼」で出た6月1日のヤクルト戦(新潟・柏崎)では初回に先制満塁本塁打。「4番バッターで(初回の)1イニングに満塁本塁打を打った人はそんなに多くないらしい。1番、2番、3番が出て4番が打つって流れだからね」と得意のインパクトある働きで調子を上げた。安打を量産して、6月終了時の打率は.349まで上がった。好調は続き、8月15日終了時点でも.339と高打率をキープしていた。
規定打席には到達していなかったとはいえ、その時点でヤクルト・古田敦也捕手は.329、中日・落合博満内野手が.333。シーズン最終成績で打率1位と2位となった両選手より数字を残していた。「新聞とかにも初めて首位打者候補として俺の名前が出てきたんですよ。もうちょっとで規定打席ってことだね」と西田氏は振り返る。「で、新聞に出始めたら、(打率が)下がっていったんですよね。まぁ体力もなかったのかなぁ」。バットの調子がそこから下り坂になってしまったという。
リーグ優勝を決めた試合で先制の適時打、忘れぬ9年目の歓喜
この年、4月14日の巨人戦(広島)を最後に津田投手が体調不良で離脱し、精密検査で脳腫瘍が判明した。病状を知った選手会長の山崎隆造外野手が「津田のために頑張ろう。優勝旅行に連れていってやろう」とナインに訴え、チームは一丸となった。首位を走っていた星野仙一監督率いる中日を、広島が終盤に捉えて逆転優勝を成し遂げた。西田氏も9月12日の中日戦(ナゴヤ球場)で2安打3打点、9月19日のヤクルト戦(広島)では0-1の9回裏に逆転サヨナラ2ランを放った。
1-0で優勝が決まった10月13日の阪神とのダブルヘッダー第2試合(広島)でも、その1点は初回に西田氏の右前適時打によるもの。節目、節目ではインパクトある活躍を見せたが、打てなかった日も少なくなく、打率は低下し、9月終了時点では.297と3割を切っていた。スタメン落ちも増え、結局、規定打席に届かず最終打率は.289だった。
「(首脳陣から)“規定打席がかかっているけど、どうする”とか聞かれて、確か『僕はいいです』って言ったと思う。今思えば、規定打席って大事だったよね。入っていたらベストナインとかにもなれたかもしれないし……。まぁ、でも秋の季節になって急激に打てなくなったんだから自業自得じゃないですかねぇ」と苦笑しながらも、悔しそうに話した。
とはいえ、西田氏が1991年のリーグ優勝に大きく貢献したのは事実。「あの年は(8月13日の)中日戦(広島)で郭源治さんから3ランを打って、そのあと(死球を)ぶつけられて(中日監督の)星野さんと(広島監督の山本)浩二さんがもめたこともあったなぁ。(10月13日に)優勝が決まって、市民球場でビールかけをしたのもいい思い出ですよ」。赤ヘルの4番打者としてインパクトを残したシーズン。プロ9年目は忘れられない年になった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)