「思いつき」でトレード打診→「もういいです」 合意目前で辞退…幻に終わった鷹移籍

王監督就任1年目のダイエーに移籍目前も…再び感じた「プチッ」
決断せざるを得なかった。元広島外野手の西田真二氏(野球評論家、香川オリーブガイナーズアドバイザー)は1995年シーズン限りで現役を引退した。法大から1982年ドラフト1位で入団以来、カープ一筋の13年間のプロ生活だった。だが、もしかしたら最後は他球団のユニホームを着ていたかもしれなかった。シーズン中にダイエー(現ソフトバンク)へのトレード移籍話が土壇場で“破談”となっていた。
前年(1994年)はキャンプ中も、シーズン中も足の肉離れで苦しんだ西田氏だが、この年(1995年)も怪我につきまとわれた。「キャンプの紅白戦でフルスイング、空振りした時に左手首を痛めた。そのあとすぐにホームランを打ったけどね、痛かったけど……。で、そこから(調子は)悪くなった。我慢して注射を打ちながらやったんだけどね」。この左手首痛もあって、開幕は2軍スタートとなった。そして、1軍から声はなかなかかからなかった。
三村敏之監督体制2年目の広島外野陣は前田智徳外野手、金本知憲外野手、音重鎮外野手、河田雄祐外野手らで形成。5月23日のヤクルト戦(神宮)で前田が右アキレス腱断裂で戦列を離れた後には、緒方孝市外野手も頭角を現していた。そんな中、西田氏のシーズン初出場は5月28日の巨人戦(広島)までずれ込み、役割も代打だった。まだまだ若い選手たちには負けていないはず、との自負もあったのだろう。出場機会を求めて、球団にトレードをお願いしたそうだ。
「年齢的にもいろいろ考えていた頃だったけどね。まぁ、ちょっと思いつきで(球団本部長の)上土井(勝利)さんに言ってしまったような感じだったかな」と西田氏は話す。上土井本部長もその意向に沿ってDH制があるパ・リーグ中心に動いてくれたそうで、王貞治監督が就任1年目のダイエーへの移籍が決まりかけたという。しかし、それは幻に終わった。西田氏が6月4日の巨人戦(東京ドーム)で負傷し、移籍を諦めたからだった。
「東京ドームで(代打出場し)槙原(寛己投手)からセンター前ヒットを打った時にまたプチッと軽い肉離れ。それで球団に『(トレードは)もういいです』と言いに行ったんです。この件では上土井さんにも、三村さんにも、今のオーナー(当時は松田元常務)にも本当に迷惑をかけました。もちろん、相手球団にもね。ただ、今でも思うんだけど、僕が『残ります』って言った時、今のオーナーがうれしそうな顔をしてくれたんですよ。いろんなことを考えてくれたんだと思います」
引退試合で名手・久慈の横を抜く流し打ち「これはまだやれるな」
移籍話を自ら口にして、自ら幕引きした形の西田氏はその後、2軍再調整となった。だが、体の状態はよくないままだった。「やっぱり、足が動かなくなったっていうのがねぇ……」。夏の終わりには現役引退を決断した。まだやりたい気持ちはあっても体が言うことをきかなかった。「いろんな人に相談してね。最終的には自分で決めました」。引退報告後の9月には球団からの勧めでメジャーリーグの勉強にも行かせてもらったそうだ。
「三村さんには『お前はまだ現役じゃないのか』ってシーズン中にアメリカへ行ったことを怒られたけどね(笑)。でも、引退試合もやらせてもらってありがたかったですよ」。その引退試合は10月13日の阪神戦(広島)。西田氏は8回に代打で登場して三遊間に流し打ちで安打を放った。「分かりきった真っ直ぐを打ったけどね。(阪神の)ショートは(名手の)久慈(照嘉内野手)だったし、完全に抜けたから、これはまだやれるなって思いましたよ(笑)。ただ、もう走れなかったからねぇ」。
試合後に胴上げはされたが、マイクを使っての挨拶はしなかった。「花束をもらってサヨナラって感じでね。泣きそうだったわけではないけど、まぁ、俺はそこまでの選手じゃなかったし、それでいいんじゃないかって思ったんですよ」。
通算成績は777試合、打率.285、44本塁打、226打点。「代打としてはいいんじゃないか。レギュラーとしては物足りんけどね」と話したが、数え切れないほどのインパクトある活躍は広島ファン、プロ野球ファンに強い印象を残した。赤ヘル稀代の勝負師は「カープで終わってよかったと思っています」としみじみと口にした。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)