8連続完投でボロボロ→上がらぬ左肩…“消えた神童”が選んだ進路 甲子園まで残された猶予

「バファリンを2錠飲んで」強行登板を重ねた少年時代
第108回全国高等学校野球選手権大会が8月5日から開幕する。今から48年前の甲子園。王貞治以来となる2試合連続本塁打を放ち、“王2世”として列島を熱狂させた怪物がいた――群馬・桐生高校の阿久沢毅。のちにプロから注目され、59歳でプロバスケットボール「Bリーグ」の社長へと転身する異色の男だ。全ての起点は、聖地での大爆発にあった。その知られざるドラマに迫る。
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7月某日。最高気温36度を記録した東京・中目黒の真昼間、白のワイシャツ姿の大男がスマホを見つめていた。Bリーグ「群馬クレインサンダーズ」の社長として手腕を振るう阿久沢氏は、母校・桐生の試合を観戦しながら「俺たち以降は(甲子園に)出てないからさ。今年はなんかいけそうなんだよね」と白い歯を見せた。
その言葉むなしく、桐生は準々決勝・前橋育英戦に延長10回の末に3-4で惜敗し、今年も甲子園出場はならなかった。最後に聖地を踏んだのは、エース・木暮洋と「3番・一塁」の阿久沢氏を擁した1978年まで遡る。のちに高校きってのスラッガーとして猛威を振るうことになる阿久沢氏だが、高校入学前には“群馬の怪童”として注目された剛腕でもあった。
小学生で身長170センチを超えており、中学では「4番・投手」として県大会優勝。しかしその裏で、左肘と左肩は悲鳴を上げていた。「中学2年の冬、地元の講習会で指導者に『もっと上から投げろ』と言われて。夢中で投げたら翌日の新聞に大きく載って嬉しかったんだけど、春になっても肩と肘が抜けるような激痛が治まらなくて。試合前にバファリン(鎮痛剤)を2錠飲んで投げてました。気休めでしたけどね。8試合連続完投だったかな? 関東大会まで投げ切った後は、もう痛くて『野球はもういいや』と思ってましたね」。
それでも県内外からのオファーは殺到。阿久沢氏が選んだのは、夏13回・選抜11回を誇る名門・桐生だった。「名門って知らなかったんだけどね。僕らが入るまで10年くらい甲子園に出てなかったしね」と笑い飛ばす。
1年時から背番号「1」を託されたが、夏はあっけなく終わった。「これがめっちゃ暑さに弱くてね。自分は“スーパー1年生”ではなかったですね」と会議室の天井をそっと見つめた。桐生は秋、翌年の夏も甲子園に届かなかった。気づけば残る高校生活は1年。“神童”への期待は薄らぎ始める中、転機が訪れた。
秋大会の直前に右手を骨折…ガチガチのテーピングから掴んだ打撃の極
秋大会に向けた練習中に走者と接触して右手を骨折。大会には出場できなかったが、大黒柱を欠いたチームは奮闘し、秋季関東大会への出場権を掴む。本戦直前、ギプスを外した阿久沢氏は「痛くて手首が全然動かない。自分でテーピングをぐるぐる巻きにして復帰しました」と強行出場を決断した。
右手は使い物にならなかった。しかし、このハンデこそが“王2世”の才能を覚醒させる。「右手が使えないから、左手1本で連れていくしかない。でも、それが反対方向に長打を飛ばす極意だったんです。右手でこねないからバットの面が長く軌道に乗る。関東大会の初戦でレフトオーバーを含めて3安打。『力を抜いて逆方向へ打つ』感覚を、怪我のおかげで掴んだんです」。
本人は「当てるだけでポーンと」とおどけるが、その打球が逆方向に外野手の頭を越えるのだから、規格外であったことは間違いない。関東大会は準決勝・印旛(千葉)に延長14回の末に1-2で敗れたもののベスト4入り。阿久沢はマルチ安打の活躍だった。記念大会で、群馬から前橋も出場して同じくベスト4に進み、両校とも翌春の選抜の切符を掴み取った。
桐生にとって12年ぶりの選抜。初戦の相手は、エース神里昌二や強打の捕手・石嶺和彦(阪急、オリックスで活躍)を擁し、印旛とPL学園(大阪)に並んで優勝候補に挙げられていた豊見城(沖縄)だった。
「OBの方々から『豊見城の練習は見に行くな! ビビるから集中しろ』と言われましてね(笑)。相手がどんだけ強いかも知らず、無欲で臨んだのが良かった。開幕日の第3試合、薄暗くて『ナイターつけてくれよ』と思いながら振ったら、センターオーバーの二塁打になった。勝つとか負けるとか変なプレッシャーもなく、楽しくプレーできました」と話の熱は帯びる。
優勝候補を3-1で撃破した桐生。そして、逆風を力に変えた阿久沢のバットは、ここから甲子園の歴史を揺るがす大爆発を見せることになる――。
(新井裕貴 / Yuki Arai)