メディアに付けられた“王2世”の異名 甲子園フィーバーも…17歳怪物が抱いた本音「失礼だろ」

王貞治から「もう一発打って」…2戦連発で偉業達成
1978年春の選抜甲子園で、王貞治(早稲田実業)以来20年ぶりとなる2試合連続本塁打を放った桐生(群馬)の阿久沢毅。連日メディアは「王2世」と大々的に報じ、当時巨人の大スターだった王氏本人からもエールが送られた。一躍フィーバーの頂点に立った17歳だったが、当の本人は「比べるなんて恐れ多い」と、周囲の熱狂を冷静に見つめていた。過熱する報道の裏で、怪物スラッガーが抱いていた戸惑いとは――。
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現在、Bリーグ「群馬クレインサンダーズ」の社長を務める阿久沢氏だが、48年前の春、彼は間違いなく高校野球界の中心にいた。選抜1回戦で優勝候補・豊見城(沖縄)を破った桐生は、2回戦・岐阜戦でも阿久沢が左中間へ本塁打を放つなど7-0で完勝。そして圧巻だったのは、準々決勝・郡山(奈良)戦で見せた「計算し尽くされた一発」だった。
郡山のエース・池上は、サイドスローから切れ味の鋭いシンカーを投じる難敵だった。試合前、監督から一風変わった指示が飛ぶ。「『一番得意なシンカーを狙っていけ』と言われたんです。最高のボールにあえて食いついてプレッシャーを与え、甘い真っ直ぐを引き出すんだと。1打席目はシンカーで三振。2打席目にファウルで粘ったら、インコースにストレートを投げてきた。それを振り抜いたんです」。
打球は浜風を突き破り、右翼席へと突き刺さる完璧な一発となった。選抜での2戦連発は、同じ左打者の王氏以来20年ぶりの偉業だった。当然、メディアは黙っていなかった。“王2世”として一気に阿久沢を持ち上げた。翌日の新聞には王氏本人から「立派ですね。ぜひもう一発打って」というコメントが大きく躍ったという。
群馬の片田舎からやって来た17歳は一躍、時の人となった。果たして本人はというと、熱狂する周囲から一定の距離を置いていた。「翌朝、新聞を見たときは本当に恐れ多くて、穴があったら入りたい気持ちでしたね。たかだか高校生の僕がね。『王さんと比べるなよ、失礼だろ』と思っていました。記録のことも知らなかったですしね」。
一方で半世紀近い時を経た今、その受け止め方は変わった。「当時は『勘弁してくれよ』って感じでしたが、まぁ今となってはありがたいですよね。覚えててくださる人もいるし、名刺代わりになっていますよ」とニコリ。社長として数多くの人と関わる中でも、「あの時の阿久沢か!」と、初対面の相手とすぐに打ち解けられるという。“甲子園パワー”は、50年近く経った今も色褪せていない。

甲子園フィーバーでも「全然モテなかった」…“王2世”が持ち帰った土と2球
全国を揺るがすフィーバーの渦中にいながら、当の阿久沢本人の日常は驚くほど静かなものだったという。
「全然モテなかったですからね(笑)。やっぱり野球はピッチャーなんですよ。木暮のところには女の子がいっぱい来て。自分のところはオジサンばっかり(笑)。『阿久沢は足の使い方が上手いんだ』と“玄人”の方が声をかけてくることもよくありました」。
強豪を次々と撃破して準決勝に進むも、浜松商(静岡)に2-3で惜敗した。「自分たちは優勝なんて考えてなかったですしね。ここまで来れたのも『すげーな』って感じでした。とにかく目の前のことに1つ1つ集中。それだけです」。阿久沢自身は涙を見せなかった一方で、悔し涙を流す選手もいた。
そして聖地を去る際、阿久沢氏はシューズの袋いっぱいに甲子園の土を詰め込んで持ち帰った。「持ってきたはいいけれど特に使い道もなくてね。瓶にしまって、そこに選抜で打ったホームランボール2個を入れて保存していたんです」。その土とメモリアルボールが入った瓶は、時を経て現在、群馬の高校球児の聖地である「県営敷島球場(上毛新聞敷島球場)」の入口に飾られている。「あー、役に立ってよかった(笑)」と、阿久沢氏は白い歯を見せた。
終わったことに固執せず、前だけを見つめる潔さ。涙を見せず聖地を後にした17歳の周りでは、やがて「プロ注目」という新たな熱狂が巻き起こった。誰もが、その怪物が次に進む舞台はプロ野球だと考えた。しかし、阿久沢氏の胸にその選択肢はなかった。“王2世”はなぜ、プロへの道を選ばなかったのか――。
(新井裕貴 / Yuki Arai)