敗戦したのに臨時ボーナス “ウハウハ”だった社会人1年目…砕かれた自信

名捕手で中日でMVPの中尾孝義氏、プリンスホテル1年目は予選で敗退した
社会人野球で最大の大会「都市対抗野球」が8月26日に東京ドームで開幕する。中日でMVPを獲得するなど3球団で名捕手として鳴らした野球評論家の中尾孝義氏も、専大を経た社会人1年目から都市対抗を経験した。ただし入社したプリンスホテルではなく、熊谷組の補強選手での出場だった。「他の会社から『プリンスだけは絶対に本大会には行かすな』という意識を感じていましたね」。当時を回想してもらった。
「プリンスホテル」は、1979年2月から本格的に始動した。プロからドラフト指名を打診されながら断って新興の社会人チームを選んだ中尾氏は、静岡県にある下田プリンスホテルを宿舎にしてキャンプを過ごした。
「最初は支度金が数千万円出るという噂を聞いてたけど、いざ入ってみたら500万円だったかなぁ。手取りは月20万円で、大会での活躍次第で特別ボーナスが出る形。キャンプではホテルマンになるための研修もありました。ベッドメーキングとかテーブルマナー。昼間は野球で夜は仕事の勉強、そんな感じです。好きな野球ができるし、いいホテルにも泊まれる。メチャクチャ楽しかったですね」
キャンプが終わると、埼玉県所沢市小手指に新築された野球部の寮に移った。全選手に個室が与えられ、練習場所は西武第2球場。恵まれた環境でスタートを切ったプリンスホテルに対し、他の社会人チームが闘志を燃やすのも必然と言えた。
それでも中尾氏は「行けると思ってましたよ」と自信を持っていた。皆が社会人ではルーキーとはいえ、中尾氏と同様に高校、大学でプロから注目を浴びたエリート集団なのだ。だが、東京都の第2次予選1回戦で大敗した。敗者復活戦に回って出場枠ラストを懸けた第3代表決定戦にたどり着いたものの、電電東京(現・NTT東日本)に延長11回の末に7-8で屈した。「あれだけ期待されていたのに都市対抗に届かなかった。社内での風当りは強かったです」と今でも悔しそうだ。
「補強選手」で熊谷組の準優勝に貢献も…「正捕手には申し訳ない気持ち」
ところが、中尾氏個人は“逆転”で出場権を掴んだ。「僕は、まだあんまり社会人野球の仕組みを知らなかった」。出場チームが同じ地区で敗れたチームからメンバーに組み入れる「補強選手」の制度がある。熊谷組が中尾氏を抜擢した。「プリンスと熊谷組からそれぞれ30万円ぐらい補強費が出ましたね」と望外のボーナスを記憶する。
中尾氏のバットは打ち出の小槌のようだった。大倉工業戦で本塁打を放ち、6-2で初戦を突破した。2回戦の新日鉄大分戦では逆転3ランで3-2。準々決勝は東芝府中を4-1で制し、準決勝は日産自動車を7-2と圧倒した。三菱重工広島との決勝では、大町定夫投手(後に阪神)から4回に右翼へ同点弾、6回には左翼へ2ランと2打席連続アーチをかけた。9回に4失点で4-6と逆転負けを喫し、熊谷組は惜しくも準優勝となった。
中尾氏は5試合全てスタメン出場し、16打数6安打7打点をマーク。敢闘賞に相当する「久慈賞」に選出された。4本塁打は当時の大会タイ記録。優勝していればMVPの「橋戸賞」だったはず。後にプロでMVPに輝いており、社会人とダブルでMVPの可能性もあったのだ。「これまで両方でMVPというのはあったのかな?」と笑いつつ、「この大会の成績のおかげで、プリンスと熊谷組の両方から50万円ずつボーナスを頂戴しました」。
中尾氏は、嬉しい思い出と同時に一人の選手に対して想いを馳せる。「熊谷組には町田(昌昭)さんっていう正捕手がいたんですよ。都市対抗はお祭りみたい。当時の後楽園球場が満員になって、会社の応援団と選手が一体になる。あの雰囲気は物凄かった。仕事もしながら、誰もがあの晴れ舞台を夢にやっている。それが僕が補強で出た事でね……。町田さんに申し訳ない気持ちもあります」。プロとはまた違う社会人野球の重みを説明した。
(西村大輔 / Taisuke Nishimura)