早くから“重鎮”に注目された少年期 野球が当たり前の環境でも目立った「代打の神様」

現役時代は阪神で活躍した八木裕氏【写真:山口真司】
現役時代は阪神で活躍した八木裕氏【写真:山口真司】

元阪神の八木裕氏が明かす、野球を始めたきっかけ

 阪神で“長距離砲”や“代打の神様”として名を馳せたのが八木裕氏(野球評論家)だ。1986年のドラフト3位で三菱自動車水島から阪神入りし、プロ4年目の1990年からは3年連続20本塁打以上をマーク。その後、故障に苦しんだが、代打で新境地を開き、スタンドを沸かせた。まさに実力と人気を兼ね備えた虎戦士だったが、その片鱗は少年時代にも……。小学6年生の時に地元テレビ局に中継された“一大イベント”で大活躍していた。

 勝負強い打撃で知られた八木氏は岡山県玉野市出身。「小学校3年生の10月くらいだったかな。地元のスポーツ少年団ができたんですよ。軟式野球のね。そこに入団したのが、ちゃんとユニホームを着て、野球をやり始めた時だったと思います」。1965年6月8日生まれ。玉野市立胸上小学校に通う9歳の頃の話だが、それまでも野球は身近なものだったという。

「我々の頃はスポーツをやるっていう前から遊びで野球をやっていましたからね。捕って、投げて、打って、というのはね。それが公園であっても、どこかの広場であっても、学校の運動場であっても、休み時間であっても、そういうところで、柔らかいボールを使って、竹を切ってバット代わりにしてね。小学校に入ったくらいからやっていたので、当然、スポーツするなら野球だって思っていました」。そんな時に胸上野球スポーツ少年団が結成された。

「4年生、5年生、6年生がいたので、僕は一番年下でした。あまりグラウンドは使わせてもらえなかったし、特に4年生までは走ったりとか、そういうことが多かったんですが、指導者がすごく熱心で、甲子園経験者とかもおられて、その頃からしっかりとした基礎トレーニングをしていただいて、下地を作ってもらいました。それは大きかったと思います」。ポジションは投手。試合で投げるようになったのは5年生になってからだったそうだ。

「打つ方は5年の時は6番とか7番だったと思います。その時のチームはそんなに強くなくて玉野市のなかでも負けていたんですけどね。僕が試合に出るようになったら親も一生懸命、力を入れだした。親も野球が好きになっていって、テレビのプロ野球中継も見るようになった。巨人戦しかやっていませんでしたけどね。僕もそれを見ていた記憶があります。でも、その頃は別に憧れのプロ野球選手もいなかったし、ずっと見ている感じではなかったですけどね」

小学6年の秋、岡山県大会でも優勝「一番の思い出」

 1977年、八木氏が小学6年になった時に胸上野球スポーツ少年団は一気に強くなったそうだ。「玉野市の大会がいくつかあるんですが、そこで優勝するようになりました。僕は3番を打って、ピッチャー。基礎をしっかりやっていただいたおかげで僕だけじゃなくて、キャッチャーもいいし、内野もちゃんと守ってくれる。外野も足の速い子が何人かいたりして、とてもバランスの取れたいいチームが出来上がったんです」。

 小学6年の秋には岡山県大会でも優勝したという。「最後の秋の大会で、玉野市の予選を勝ち上がって、県大会に出て優勝したんです。決勝は総社市のチームに勝ちました」。この試合は地元では大いに話題となった。「岡山放送(OHK)でテレビ中継されたぐらい、一大イベントみたいな感じだったんです。なぜかはよくわからないですけどね。そのビデオもあるんですけど、解説は岡本伊三美さんがやられていたんですよ」。

 元南海選手で、のちに近鉄で監督や球団代表も務めた岡本氏に、ネット裏から直視される中、エースで3番打者の八木少年は結果を出した。「7回制でしたけど完投しました。6-2だったかな。2ランか3ランも打ちました。右中間を抜けていったランニングホームランですけどね。試合後はウチの親父とお袋もインタビューされて、ああ、恥ずかしいと思いましたけどね(笑)。優勝できて、すごく嬉しかったし、小学生の一番の思い出としてありますね」。

 その活躍で、ちょっと有名にもなった。「まぁ、地元ではね。その頃はまだピンと来ていないんでしょうけど、テレビでやっていたというだけで……」。その実績を引っ提げて、八木氏は玉野市立東児中に進んだ。県大会を制した胸上野球スポーツ少年団のメンバーも全員、東児中の軟式野球部に入ったという。だが「中学の時は市では優勝したけど、県では勝てなかったんです」。そこではまた違う“世界”が待っていた。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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