職員室で見た49年前の“伝説の試合” 高まった甲子園への憧れ…「代打の神様」の中学時代

阪神OBの八木氏が振り返る中学時代
ライバルの存在がレベルアップにつながった。元阪神で“代打の神様”としても知られた八木裕氏(野球評論家)は岡山・玉野市立東児中時代、投手としても注目を集める逸材だった。1979年の中学2年時から主戦投手で、3年時にはエースで4番の大黒柱になった。そんな成長の裏にあったのが、県内屈指の強豪校・玉野市立宇野中に負けたくないという思い。加えて岡山市立御南(みなん)中学のエースで4番、後に阪神で同僚になる選手にも刺激を受けたという。
玉野市立胸上小6年の時に、胸上野球スポーツ少年団のエース兼3番打者として岡山県大会優勝に貢献。その実績も引っ提げて東児中に進んだ八木氏だが「中学生って体の成長度がグッと上がるところなんでね。やっぱり1年生は3年生に絶対負けるので、1年の時はそんなに試合にも出ていなかった。地道な下積みっていうか、トレーニングが中心でした」と話す。小学校時代の“栄光”は関係なかったようだ。
「2年生になってからは一応、主戦で投げるようになりましたが、まぁ、僕もそんなにすごく良くはなかったと思います。2年の時は、市でも優勝していないと思うし、弱かったですよ。その頃は、あまりいい思い出がないですね」と苦笑しながら振り返った。ただ、そんな中学2年時の1979年8月16日、夏の甲子園第4試合で延長18回の末、箕島(和歌山)が星稜(石川)を4-3で下した激闘は印象深いそうだ。
延長12回と16回に星稜が1点勝ち越すと、その裏に箕島が追いつく手に汗握る大熱戦。今も語り継がれる名勝負だが「あの試合、僕らは練習の後に学校の職員室で見ていました。“すごい試合やっているから”ってことでね。もうその頃には、どこの高校に行くかも考えながら甲子園大会をよく見ていたんですが、やっぱり、あれを見て、甲子園に行きたいなって思いましたね」。練習にもこれまで以上に力が入ったのは言うまでもない。
同じエースで4番、阪神で同僚だった横谷総一氏の存在
「3年生になったら同級生たちも力をつけてきて、ウチのチームはどんどん強くなったんです。市では優勝することもありました」。そんな中で宿命のライバルが宇野中だった。「あそこは昔から野球が有名というか、すごくレベルが高かった。僕はね、あのチームがあったからこそ中学校で一生懸命野球をやったんです。市では勝ったことがありましたけど、結局、県大会では勝てませんでしたけどね。決勝で負けました。宇野中は全国大会に行ってベスト4。ホント、強いチームだったんですよ」。
“打倒宇野中”は八木氏のモチベーションだった。「宇野中に勝たないと、って思っていましたからね。僕はピッチャーでしたから思いっきりランニングしていました。暇があれば走っていました。大会前とかは1日20キロくらい。まぁ、今、考えると、あまりよくなくて、逆に体力が落ちていたんじゃないかと思いますけどね(笑)。でも、下半身が安定するとコントロールがよくなるっていうのは気付いていたんでね」。
中学3年時の八木氏は東児中のエースで4番だった。「身長はもう181くらいありました。プロ野球に行くんだったら、ピッチャーとして、だろうな、なんて思っていましたし、いろんな人から『頑張ったら行けるんじゃない』くらいのことを言われ出したのは3年生が終わる頃ですかねぇ」と話したが、この中学時代には個人のライバルもいた。御南中のエースで4番、のちに阪神でチームメートにもなる横谷総一氏だ。
「横谷も有名だったんです。バッティングがよかったんでね。県大会の準決勝くらいで当たって勝ちましたけど、あいつにはよく打たれたって記憶があります。僕が打ったかどうかは覚えていないんですけどね。僕を成長させてくれた1人です。あんなに凄い選手が近くにいて負けられないと思いましたから。それに横谷との関係は高校でも続きますしね」。八木氏は岡山東商、横谷氏は岡山南に進学し、さらにしのぎを削っていく。中学時代は、そんなライバル物語の序章でもあったわけだ。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)