5日(日本時間6日)、デーゲームでのレイズ戦で12勝目を目指したロッキーズ・菅野は、初回に2点を奪われると、3回には3番ジュニオール・カミネロ内野手に左翼へ33号ソロを浴び序盤で3失点。以後は立ち直り、4回、5回を3者凡退で終え、9者連続アウトを奪った。士気を高めた6回のマウンドだったが、先頭打者に四球を与え無念の降板。9登板ぶりに負けがつき5敗目を喫した。
スタンドからねぎらいの大きな拍手を受けた菅野を見て、ロッキーズ番の記者たちが口をそろえた。「トレード消滅で地元ファンへの思いを示したのだろう」。だが、帽子を取って小さくうなずいた菅野の思いは、日本から来た伯父の原辰徳氏、そして父・隆志さんと母・詠美さんにも向けられていた。
「智之は本当によくやっていますよ。ここはボールが飛ぶと言われていますけど、数日前にしたゴルフで身をもって知りました。本当、ボールがよく飛ぶんです。そりゃコロラドで投げる時は、とても気を使うでしょうね。ここで生き残るために新たな球種を覚えたのもよく分かります」
ここまで菅野が挙げた12勝は、本拠地で7勝(3敗)、敵地では5勝(2敗)。「打者天国」と称されるクアーズ・フィールドでの力投ぶりが分かる。5日(同6日)も、初回2失点から立ち直り、6回途中3失点の粘投で援護を待ったが、かつて日本ハム、ソフトバンクでもプレーしてNPB通算21勝を挙げたレイズ先発ニック・マルティネス投手が快投を演じ、勝機を作れず完敗した。
そんな菅野の姿をデンバーで見つめる原氏とアメリカで再会するたび、私にはずっと思ってきたことがある――。「世が世なら」原辰徳は日本人野手初のメジャーリーガーになっていた可能性があるということ。“何を根拠に?”と、いぶかる向きに、厳然な事実を示そう。
1996年9月のことだった。原氏は、ドジャースの指揮官として就任20周年を迎えたトミー・ラソーダ監督にお祝いの品を贈っている。その時、ラソーダ監督から、こんな話が飛び出した。
「タツノリの獲得を本当に考えた。これはリップサービスでも何でもない。1981年、ジャイアンツはキャンプ終盤をドジャースのキャンプ地ベロビーチ(フロリダ州)で張った。その時、彼は入団1年目のルーキーだったが、練習で柵越えを連発して、守備も走塁も実によかった。そしてルックスだよ。ハンサムだよな。好材料が全部そろっていた。ピーター(オマリー球団社長)も惚れ込んでいた。嘘だと思うならピーターに聞いてくれ。でもなぁ、あの頃は、日米間の移籍ルールなんてまったくできていない時代だった。諦めるしかなかったんだ」
イチローよりもずっと前に日本人野手のメジャーリーガーが誕生していたかもしれない……。ラソーダ監督の話は衝撃的だった。
デンバー滞在最後の夜、原氏に水を向けた。
「その話は、ドジャースも私には直接できないでしょう。他球団の、それも異国の選手ですからね(笑)。でも事実です。藤田元司監督から聞かされました。映画のような話ですけど、あの時はもう自分のことで必死。気に留めることなんかなかった。プロ1年目のキャンプで、それも二塁転向を言い渡されて臨んでいたわけですから、余裕があるわけない。でもね、あの春、メジャーチームとのオープン戦を転戦してね。夢のようでした。結局、通算で4割は打っていましたから、メジャー関係者の目にもよく映ったんじゃないですかね」
当時の記録を探し出し、目で追った。メジャーとのオープン戦5試合に出場し、ツインズ戦での1ホーマーを含めて16打数7安打4打点、打率.438。チームの首位打者と打点王になっている。前年にヤンキースから移籍した好打者ロン・ホワイトの18打数6安打(2本塁打含む)を凌ぐ活躍ぶりだった。この数字を見れば、ラソーダ監督の言葉が単なるリップサービスではなかったことも分かる。
メジャー通算3154安打の至宝も原氏を称賛「印象に残る選手の1人」
原辰徳を評価していた米球界関係者は、ラソーダ監督だけではない。
ケン・モッカ氏に「メジャーで見たかった日本人選手」を挙げてもらったのは、アスレチックスの監督に就任した2003年のこと。ブルージェイズなどでプレーし、1982年から4シーズン、中日でも活躍した同氏は率直に述べた。
「野手ならタツノリ・ハラ。シーズンで本塁打20本は打てたと思う。3拍子そろったヨシヒコ・タカハシ(広島・高橋慶彦)もやれたと思う。投手ならエンドウ(大洋・遠藤一彦)。彼のフォークは今まで見たこともないような落ち方をしていた。それと、全盛期のエガワ(巨人・江川卓)。高めのストレートの伸びには舌を巻いたし、カーブの切れと制球が抜群だった」
さらに、1981年11月の日米野球で、王貞治に並ぶ日本人選手最多タイの6本塁打を放った原辰徳を「最も印象に残る選手の1人」として挙げたのが、メジャー通算3154安打で殿堂入りしたロイヤルズの至宝ジョージ・ブレット氏(現ロイヤルズ副社長)だ。
カンザスで見かけると「ハラサン、ゲンキデスカ?」と話しかけてくる。こうして“厳然な事実”に触れるたびに、私は「メジャーリーガー、原辰徳」を夢想せずにはいられない。
ここで秘話を明かすと、原氏はベロビーチ・キャンプで虎視眈々とレギュラーの座を狙っていたマイク・ソーシア捕手と出会っている。
2002年の秋だった。巨人監督就任1年目の原監督に、エンゼルス球団史上初のワールド・シリーズ制覇を目指し、チームを率いていたソーシア監督から激励のメッセージが贈られている。同年、両監督は日米それぞれの頂点を極めた。
昭和の後期に、アメリカを感じさせた数少ないプロ野球選手が原辰徳だった。当時はまだ遠い世界だったメジャーリーグで、今、甥が投げている。40年余りの時を隔ててベロビーチとデンバーが、1本の線でつながったように思えた。
ロッキーズ残留が決まった翌日、菅野が明かした心境
トレード期限の8月3日(同4日)、ナ・リーグ西地区で最下位に沈むロッキーズで孤軍奮闘し、トレード候補として名前が挙がっていた菅野の残留が決まった。翌日、心境を聞いた。
「どこのマウンドでもやることは一緒。メジャーリーグで投げられることは特別なことだし、そこにしっかり自分の価値を見出してやるだけです」
原氏は、菅野の心中を忖度して言った。
「すごい実績を残しながらも、智之は日本で優勝には縁がなかったんです。だから、憧れだったメジャーのポストシーズンで投げたいという欲は絶対に持っている。でも、1年でも多くアメリカのマウンドに立ちたいという気持ちが誰よりも強いことは間違いありません」
高地デンバーで交錯した2人の想いを、はるかな過去の断片を迎え入れながら感じ取った。
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【マイ・メジャー・ノート】
1995年の野茂英雄の大リーグデビューから取材を続ける在米スポーツジャーナリスト・木崎英夫記者による深堀りコラム。現場での取材からはもちろん、豊富な取材メモから送るエピソードも。コアなMLBファンのための記事を原則週1本配信。
○著者プロフィール
木崎英夫(きざき・ひでお)
1983年早大卒。1995年の野茂英雄の大リーグデビューから取材を続けるベースボールジャーナリスト。日刊スポーツや通信社の通信員を務め、2019年からFull-Countの現地記者として活動中。日本では電波媒体で11年間活動。その実績を生かし、2004年には年間最多安打記録を更新したイチローの偉業達成の瞬間を現地・シアトルからニッポン放送でライブ実況を果たす。元メジャーリーガーの大塚晶則氏の半生を描いた『約束のマウンド』(双葉社)では企画・構成を担当。東海大相模高野球部OB。