優勝候補のはずが“格下”に敗戦 応えられぬ4番…上がらぬ右肘も、最後の夏に苦渋の決断

阪神で活躍…八木裕氏は岡山東商で甲子園に出場できず
V候補がまさかの……。阪神でレギュラーとしても代打としても活躍した八木裕氏(野球評論家)は、岡山県立岡山東商で甲子園に出場できなかった。「4番・右翼」だった1982年の2年秋はチームも絶好調で、選抜出場に向けて手応えもつかんでいたが、岡山大会準々決勝で県立玉野高に0-3で敗れた。「あれはきつかった。ショックでした。相手投手に年イチのピッチングをされてしまって……」。正直、油断もあったという。
八木氏は高校1年時に右肘痛、2年の5月頃に左膝を痛めて半月板手術を受けるなど故障に苦しんだ。こうしたアクシデントもあって、期待されていた投手としては伸び悩んだ。最上級生になった2年秋も「その頃は投げていませんでした。肩と肘がうまく連動しないというか、ボールが全然いかなかったんです。おそらく故障して筋肉が落ちちゃっていたんだと思います。だってリハビリとかトレーニングとか、そんなの何にもなかったですからね」と言う。
一方で、打者としては2年時から4番を任されるなど打線の軸だった。2年秋は主に「4番・右翼」として野手に専念。同級生が主戦投手の新チームは、V候補と呼ばれるほど力をつけていた。「僕らは(入学時から)期待されていた世代で、3年になったら強くなるだろうとは言われていたんです。すごくいい練習もできて、強くなった手応えもあったし、選抜に向けての秋の県大会も全然負ける気がしなかったんですけどね」。甲子園も視界にとらえていたはずだった。
「(選抜出場がかかる)中国大会には(岡山から)2チームが行けるし、最低でも岡山大会は決勝に行けると思っていた」と言うほど自信もあったそうだが、準々決勝でまさかの敗退となった。玉野高に0-3。打線が沈黙した。「玉野には僕の中学校(玉野市立東児中)の時の仲間も4人ぐらいいたんですけど、練習も全然しないような”伸び伸び野球”なんです。そこにやられました」。
アンダースローに転向して活躍…3年春の岡山大会は準優勝
玉野のエースは、八木氏の中学時代のライバル校・玉野市立宇野中出身だった。「彼に年イチの完璧なピッチングをされて抑えられたんです。中学の時から野球センスが抜群で、素質はピカイチ。打っても投げてもすごかったんですけど、玉野高校に行って、そんなに真剣に野球をやっていなかったんですよ。野球の強い高校に行っていたらプロにも行けた感じでしたけどね。あまり上に行く気持ちもなかったみたいで……。今は岡山でうどん店のオーナーですけどね」。
八木氏は懐かしそうに話しながらも「あの時はショックでした」と本音を口にした。「玉野高校だったら、勝てるって思っていましたからね。チームもずっと調子がよかったし、負けるわけがないってね。まぁ、それでちょっと油断もあったのかなと思いますけどね。でも向こうのピッチングはホント、えげつかなかったんですよ」。
選抜の夢が絶たれ、甲子園出場のラストチャンスである3年夏に向けて八木氏は投手の練習も再開した。それまでのオーバースローからアンダースローに転向しての“挑戦”だった。「(1983年)3月くらいに監督にやってみろって言われたんです。上から投げると全然ボールがいかなくなっていたんで、もうそれしか方法がなかったんです。ずっと公式戦で投げてなくて同級生に悪いって気持ちもあったし、最後の夏くらいは投げないといけないだろうって思って、やってみたんです」。
急造アンダースローだったが「意外と小器用だったんでね(笑)。一応、試合でも投げるようになったんです」。春季岡山大会で岡山東商は準優勝。中学時代からのライバル・横谷総一投手(元阪神内野手)を擁する岡山南に0-2で敗れた決勝は、アンダースローの八木氏が先発して完投した。「結構、いい試合をしたと思いますよ。横谷にはツーベースを打たれましたけどね」。憧れの甲子園に向けて今度こその思いだったが、その夢はかなわなかった。最後の夏は岡山大会で初戦敗退。再び“まさか”が起きた。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)