咳で痛む骨…夏前の悲劇 「なめてた」相手にまさかの敗戦、涙も出なかった高校生活

現役時代、阪神で活躍した八木裕氏【写真:山口真司】
現役時代、阪神で活躍した八木裕氏【写真:山口真司】

8月に電電中国と関東・日通浦和にセレクションを受けるも…

 阪神で4番打者も務めた八木裕氏(野球評論家)は1984年に岡山県立岡山東商を卒業し、社会人野球の「三菱自動車水島(現三菱自動車倉敷オーシャンズ)」に入社した。高校時代は甲子園に出場できず、1983年の3年夏は岡山大会初戦敗退。進路は社会人1本に絞っていた。しかし、2チームのセレクションに参加したものの、なかなか吉報は届かなかった。軟式野球入りも視野に入れ始めていた時に、偶然の“出会い”が新天地との縁をつないでくれたという。

 八木氏にとって岡山東商での3年間は故障との闘いでもあった。その影響で「ボールがいかなくなった」と投手として伸び悩んだ。バットでは4番打者としてチームを引っ張ったものの、甲子園にはたどり着けず、不本意な形だった。3年春にはオーバースローからアンダースローに変更。急仕上げながら春季岡山大会では好投し、準優勝に輝いた。巻き返しムードを漂わせたが、最後の夏季大会の結果は初戦敗退だった。

 シード校の岡山東商は2回戦から登場し、倉敷商に3-8で敗れた。「東(商)と倉商は学校同士の全部のスポーツの定期戦があって、その年も5月に試合してボロ勝ちしていた。だから全然眼中になかったんです。まぁ、なめきっていたわけです」。一方で八木氏のコンディションは最悪だった。「(投げ方を)上から下にして違う動きになると、よくなるらしいんですが、6月頃に肋骨を疲労骨折したんです」。

 最後の最後で、また故障が邪魔した。「咳をしても痛いし、投げるのも、打つのも駄目で……。夏の大会前にはコルセットをすれば打つのは何とかって感じになったので一応出場しましたけど、まともには練習していなかったんです。それでも倉商に負けるとは思っていなかったんですけどね。大丈夫、勝てるって正直、本当になめていたんですよ」。2年秋の岡山大会も準々決勝で「勝てると思っていた」玉野高に足をすくわれたが、3年夏も同じ“まさか”を繰り返してしまったわけだ。

「負けた時、涙は出てこなかったかな、何かあっさり負けちゃったんでね。負けた悔しさよりも、終わった寂しさみたいなものがあったと思う。まぁ、不完全燃焼も甚だしいというか、今考えれば反省点の多い高校生活を送ったなとは思いますよ。ただ、一晩寝たら、あっけらかんとして、みんなと遊びにいった記憶もありますけどね」。こうして八木氏の高校野球が終わり、進路は社会人野球入りを希望したという。

「学校に頼んで8月だったかな、電電中国と関東の日通浦和にセレクションを受けに行かせてもらったんですけど、いい返事をもらえなくて……。これじゃあ硬式では行くところがないなと思って軟式に行くことも考えていたんです。で、9月になって、たまたま岡山市内を歩いている時に、岡山東の先輩で、よく行っていたスポーツ店のおじさんに偶然、会ったんですよ」。この出会いが八木氏の運命を変えた。

三菱自動車水島に“電撃入社”…条件は「アンダースロー」で投手

「『進路は決まったのか』と聞かれて『2つ受けたけど、どっちも駄目で軟式も考えています』と話したら『それはいかん。お前は硬式を続けなきゃいかん。俺が三菱自動車水島にちょっと話したるから。履歴書を用意しろ』って。僕ね、水島に硬式野球部があるって知らなかったんですよ。で、本当にギリギリのところで試験を受けさせてもらって、運良く採用していただいて、硬式野球を続けられることになったんです」

 その先輩に会っていなければ、違う野球人生になっていたかもしれない。「全然、変わっていたでしょうね」と八木氏もうなずいた。そして「その後のことなんですけど、阪神のスカウトの方が電話をくれて、獲る、獲らないではなくて『練習に参加する気はないか』という話もいただきました。よければテスト入団という形だったのかと思いますけど、周りの人に聞いたら、それはあまりせん方がいいと言われたし、社会人に決まっていたし、お断りしました」とも明かした。

 その阪神に1986年ドラフト会議で3位指名されるのだから、また何かでつながっていたということか。もっとも「三菱自動車水島にはピッチャーをやるという条件で入っていたんです。アンダースローでね」。のちの“虎のスラッガー&代打の神様”の社会人野球生活は、投手としてスタート。野手に転向するのは、社会人1年目のシーズンを終えてからになる。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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