“王貞治2世”とは全く無関係 謎だったスカウトの高評価、未練薄れ教員になった男の真実

「プロが評価していたのは守備」30年後に解けたモヤモヤ
1978年、王貞治以来となる選抜甲子園での2試合連続本塁打を放ち、“王2世”と呼ばれた桐生(群馬)の阿久沢毅。プロ12球団がドラフト候補として注目したが、本人には1つの疑問が残っていた。なぜ、自分がそこまで高く評価されたのか。長年抱え続けた問いの答えを知ったのは、高校時代から30年が過ぎた後だった。
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当時、阿久沢氏にはプロ入りの意思がなく、スカウトの評価を詳しく確かめることもなかった。疑問だけが残ったまま、約30年が過ぎた。ある時、阿久沢氏は高校時代の関口監督に、長年抱えてきた問いをぶつけた。「プロ野球のスカウトの方々は、私のどこを評価していたのでしょうか」。
返ってきたのは、予想外の答えだった。
「『守備だ』と言われたんです。打撃でも肩の強さでもなく、守備。その答えは意外でしたが、同時にとても嬉しかった。長年、心のどこかに残っていたモヤモヤが、ようやく晴れた気がしました」
理由は、膝を使った低い姿勢からの対応がうまかったこと。特に選抜準決勝・浜松商戦で一塁ライナーを好捕したプレーが、スカウトに強い印象を残したという。その試合以降、スカウトが阿久沢氏に気づかれないよう物陰からプレーを見続けていたとも、関口監督から聞いた。甲子園での2本塁打が全国に強烈な印象を残した一方で、プロの目は派手な結果とは別の部分に向けられていた。
守備力の原点は、小学5、6年生の頃に毎日続けたゴロ捕球の練習にあった。来る日も来る日も、阿久沢少年はたった一人でボールを追い続けた。「5歳で父を亡くした私にとって、父親代わりとなってくれたのが家のブロック塀でした。何も語らず、ただ毎日ボールを返し続けてくれたんです」。
高く弾む球もあれば、低く滑るように戻ってくる球もある。来る日も来る日も繰り返すうち、膝を使って低い姿勢で捕球する動きが、知らず知らずのうちに体へ染み込んだ。その積み重ねは甲子園へつながり、プロのスカウトが注目する守備力を育てていた。30年の時を経て、ようやくたどり着いた答えだった。

華やかな世界から教壇へ…「自分でやりたいと思うことが大事」
群馬大では準硬式野球を続け、国際大会にも出場した。硬式野球への未練は次第に薄れ、卒業後は教員となった。最初の2年間は小学校の教壇に立ち、その後は県立高校へ。太田、母校・桐生、渋川、勢多農林などで35年にわたり生徒と向き合い、高校野球の指導にあたった。
自身は選手として2度、甲子園の土を踏んだが、監督として聖地に立つことはなかった。公立校では、指導者が入学する選手を選べるわけではない。もちろん勝利を目指したが、阿久沢氏が何より大切にしたのは、選手自身の意思だった。
「どうすれば勝てるのか考えました。でも、何よりも子どもたちが『自分でやりたい』と思うことが大事だと思っていました。公立高校ですから、『うちに来れば受かる』とも言えません。基本は来てくれた子どもたちと、どこまでやれるかに挑戦する。それが自分のやり方でした」
指導者として、敗戦を引きずった時期もある。だが、やがて自分なりの切り替え方を見つけた。「負けた後に腐っている時間が一番嫌なんです。それなら、すぐ次のチームを作ろうと。だから、負けた翌日には新チームを作って、自分からノックを打っていました」。
結果に固執しすぎず、今できることへ目を向ける。選手時代から変わらない姿勢で、阿久沢氏は30年以上にわたって上州の球児を育てた。
そして定年を目前に控えた59歳の時、全く畑違いの世界から声が掛かる。男子プロバスケットボール「Bリーグ」のクラブ社長就任――。その打診の端緒となったのは、40年以上前、PL学園との招待試合で放った2本塁打だった。
(新井裕貴 / Yuki Arai)