阪神からの指名に「えっ」 ロッテかと思いきや…予想外の展開によぎった“辞退”

社会人3年目で成長、ドラフト候補との声も「Cクラスみたいなもの」
予想とは違っていた。野球評論家の八木裕氏は1986年のドラフト会議で阪神から3位指名された。岡山県立岡山東商、社会人野球・三菱自動車水島を経ての高卒3年目、21歳の内野手として急成長を遂げてのことだった。「指名されても下位だと思っていました」と上位指名には驚いたそうだが、一番熱心だった別の球団が有力とにらんでいたため、阪神と聞いてもびっくりしたとのこと。まだ会社に恩返しができていないため入団するかも正直、迷ったという。
八木氏は1984年の社会人1年目はアンダースローの投手だったが、自身の能力を見極めて、もうひとつ上のレベルに進むために、そのシーズンが終わったところで野手転向を直訴。それが認められて2年目からは三塁手として再スタートを切った。高校時代から打撃力も定評があり、三菱自動車水島でも転向した年から「5番」で起用され、三塁守備に慣れていくとともに、メキメキ力もつけていった。
「社会人3年目(1986年)の時はチームもちょっと強くなりました。(10月の)日本選手権にも初めて出場できました」。主軸の八木氏は、高卒3年目のドラフトイヤーであり、プロから注目されはじめた。「足も結構速かったんでね。まぁドラフト候補と言ってもCクラスみたいなものですけどね。打つ人は他にもっといましたし、バランスとか、体の素質じゃないですか。将来性とかそっちの方だったと思います。即戦力とかじゃなくてね」。
とはいえ、社会人1年目は投手。実質2年でそこまで評価される選手になった。「スカウトの中には、だいぶ前から僕を見ていたとおっしゃる方もいましたけど、“スカウトが来ているぞ”って僕の耳に入り出したのは選手権予選の終わり頃だったと思います。ヤクルト、阪神、ロッテ、日本ハムの4球団は挨拶にも来られました。ドラフト指名したらお願いします、みたいな感じで」と八木氏は振り返った。
その上で「それが自信になって日本選手権に臨んでいったのもよかったのかもしれませんね」と話したように、八木氏は10月20日の選手権1回戦の新日鉄室蘭戦で本塁打を放って勝利に貢献した。チームは2回戦で敗退したが、その舞台でも野手として成長した姿を見せたわけだ。そして、東京・千代田区の「ホテルグランドパレス」でドラフト会議が行われる11月20日を迎えた。予想していたのはロッテからの指名だったという
「会社的にもお前が阪神に行けばニュースになったりするからその方がいい」
「一番熱心だったのがロッテだったんでね。ドラフト前日まで電話がかかってきましたから。まぁ、あっても4、5、6位の下位指名だろうと思っていましたし、たぶんロッテだろうってね。そしたら、ロッテより先に阪神が指名しちゃって……」。その日の八木氏は通常通り、チーム練習に参加しており、そこに連絡があったという。「阪神から3位指名されたと聞いた時は“えっ”って思いました」。想定外の上位指名に加えて、ロッテではなく阪神だったことでまずは驚いたそうだ。
満面笑みとはならなかったという。いざ、ドラフト指名が現実になるとまた違う思いが湧き出てきたからだ。「プロに行きたいという気持ちはあったけど、このまま自分だけ万歳して、行っていいのだろうかと思ったんです。日本選手権には出たけど、目標の都市対抗には出ていない。会社に恩返しをしていなかったのでね。(指名後の)会見でも『これからチームは強くなっていくし、都市対抗のことも考えてちょっと悩んでいます』みたいなことを言ったと思います」。
阪神スカウトへの返事も保留し、入団拒否の可能性も決してゼロではなかった。それが結局、阪神入団となったのは、三菱自動車水島側から背中を押されたからだった。「監督もコーチも『せっかく指名してくれたんだから、行くべきだ。来年、ドラフトにかかる保証はないから絶対行きなさい』って言ってくれたんです。『都市対抗は気にしなくていい。会社的にもお前が阪神に行けばニュースになったりするからその方がいい』って」。
会社側からの思わぬ“バッツアップ”に熱い気持ちになったのは言うまでもない。「『じゃあ行かせてもらいます』と言いました」。こうして八木氏は阪神のユニホームに袖を通すことになった。「阪神はその前年(1985年)に日本一になった。僕もあの優勝は見ていましたから、いきなり1軍でプレーすることなんて100%考えてなかったですけどね」。熱狂的なファンも待つ“虎の世界”での闘いが始まった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)