投手で活躍も「これでは未来がない」 19歳が募らせた危機感…“約束翻意”で異例の直談判

社会人1年目はかわすピッチングで好投…「ボールが遅くて、みんな打てなかった」
元阪神のスラッガー・八木裕氏(野球評論家)は社会人野球・三菱自動車水島での1年目の1984年を投手でスタートした。「水島に入る条件がピッチャーをやることだったんです」。岡山県立岡山東商3年春にオーバースローからアンダースローに転向。高校時代に4番を務めた打撃力よりも投手としての力を買われたわけだ。試合でも好投し、期待に応えていたが「これでは未来がない」と考え、思い切って「野手をやらせてください」と直訴したという。
投手として三菱自動車水島入りの八木氏は社会人1年目から多くの試合に登板した。「怪我人が多くて、チームにはピッチャーがあまりいなかったんです。だから、もういきなり4月からバンバン投げていましたね」。アンダースローになってから、まだ1年が経過したくらいだったが「それなりに抑えていました」という。「ボールが遅くて、みんな打てなかったっていう感じでしたけどね」と笑いながら当時を思い起こした。
「持ち味はスライダーとシンカー。結構、右バッターはこれを打てなかったし、左バッターにシンカーを投げると、やたらゴロになるんですよ。これは行けるんじゃないかなって思った時もありましたよ。真っ直ぐは遅かったけど、そういう変化球があったから、何となくかわすピッチングができていたんです」。だが、投げ続けているうちに“このままで本当にいいのだろうか”という気持ちになっていったという。
「それなりに投げることはできても、よく考えてみたら、これじゃあ全く未来がないなと思ったんです」。自身のレベルをよくわかっていた。投手のままでは、さらに上のプロまで進む自分を全く想像できなかった。「野手でもプロに行けるとは思っていませんでしたけどね」と言うが、投球よりも打撃に自信もあったのだろう。「ピッチャーをやると打つ方は練習しないんですよ。だからそれも何か楽しくなくてね。何か悶々として野球が面白くないなって考えるようになったんです」。
野手転向を直訴…当初は外野予想もコーチから“意外”な返事
1984年の三菱自動車水島は都市対抗にも日本選手権にも出場できず、八木氏は「選手権の予選に負けて1年目のシーズンが終わった時点で(会社サイドに)『野手をやらせてほしいです』と言いに行きました」とアクションを起こした。水島入りの条件が「投手をやること」だったのは、もちろん、承知の上での野手転向直訴だった。その結果、認められたという。
「『じゃあ、野手をやらせてやるわ』と言われました。ちょうど監督が代わる時期で運もよかったんですよ。ラッキーだったんです。監督が代わったからチャンスだったんです」と八木氏は笑顔で話した上で、こう続けた。「タイミングよく野手にしていただいただけではなく、そこでのコーチのひと言がヒットだったというか……。僕はてっきり外野だと思ったんですよ。内野はやったことがなかったんでね。でも、コーチが『内野をやれ』って」。
それは未来を見据えての提案だった。「『将来、プロに行くってことを考えたら、絶対に内野をやった方がいい』ってね。で、サードの練習をすることになりました。コーチも夜遅くまでノックしてくれたり、すごく付き合ってくれたんですよ」。
八木氏は野手転向1年目から頭角を現した。「僕よりも打つ先輩は何人もいたんですけど、5番を打たせてもらったんです。まぁ、ホームランを打ったりはしましたけど、金属バットでしたからね」と控えめに話したが、この時の内野手転向が野球人生においてプラスになった。
「ピッチャーをやっていたんで肩はまあまあ良かったし、コントロールも良かった。何とか捕ればアウトにはできたんでね。でも社会人選手の金属バットの打球は速いし、危ない、危ない。体で止めてアウトにするみたいな感じでもありましたけどね。まあ、最初の1年は野手に慣れる時期でしたが、(1986年の社会人)3年目にはチームも強くなって全国大会に行けるようにもなったのでね」。プロからも声がかかるようになった。状況が大きく変化した。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)