江川卓は「僕を舐めていたんですよ」 務まるはずもない“天才”の代役…痛感したプロの壁

元阪神の八木氏が痛感した1軍との差「全然違いました」
緊張感が漂った。1986年ドラフト3位で三菱自動車水島から阪神入りした八木裕氏(野球評論家)は、背番号「14」のユニホームでプロ野球人生をスタートさせたが、いきなりレベル差を思い知らされたという。「ゴロを捕るだけで全然違いました」。キャンプは2軍スタートながら、場所は1、2軍ともに高知・安芸。ランディ・バース内野手、掛布雅之内野手、岡田彰布内野手の大スター選手と練習する機会もあったが……。
八木氏といえば背番号「3」が代名詞のようなものだが、それは2年目からつけたもの。プロ1年目は「14」だった。「空いている番号を3つくらい言われたなかで選びました。(阪神の)14番は中村勝広さんのイメージがあった。ピッチャーの番号かなとも思いましたけど、セカンドだった中村さんもつけていたし、別におかしくないなと思ったんで『14番でお願いします』と言いました。いい番号をいただいて一応、期待されているのかなって思いました(笑)」。
合同自主トレを経て、1987年2月のキャンプは2軍だった。「2軍のキャンプをやりながら、1軍が来たら、1軍の練習にも参加していました。安芸で(1、2軍が)ダブルでキャンプをやっていたんでね」。この“ダブル練習”で「えらい目にあいました」と言う。「ファームでバッティング練習とかをやって疲れたなって思っていたら、今度はそこに1軍が来て、1軍の方のバッティング回りをまた一緒にやるんです。2回。ずっとやっていたんですよ」。
打撃練習だけではない。「特守やらもありましたからね。バースや岡田さんや掛布さんと一緒に回らされて守備練習したりとかしてね。1年目ですから、緊張するじゃないですか。気疲れ、疲弊してもう大変だったんです。これでは駄目だ、このキャンプでは体が持たんと思いました」。その上、レベル差も痛感させられた。「全然違いました。皆さんの技術の高さにびっくりしました。ゴロを捕るだけでも違う。“うわぁ”ってね」。
打撃も同様だった。「ボールが全然飛ばないんですよ。(社会人時代の)金属バットから木になっているんでね。木ではあまり打ったことがなかったから、最初は本当に苦労しましたよ」。とにかく必死に食らいついた。「オープン戦に入ったら一応、1軍にいたのはいたんです。で、オープン戦が終わったらファームに行って試合に出ようって感じ。1軍では出られませんから。だからオープン戦も経験させようということだったと思います」。
とはいえ、オープン戦では初打席で初本塁打をかっ飛ばした。「高知市営球場の阪急戦で、ピッチャーは山沖(之彦)さんだったですかね。雪が混じるような寒い時で(スタメンで出ていた)レギュラーが早く上がって、我々“雨寒要員”が出ることになってたまたま打てたんです。打ったのは真っ直ぐ。状況とかは覚えていませんけどね。まぁ、初打席で打ったというインパクトだけですよ」と八木氏は振り返ったが、決して簡単なことではない。
巨人戦でプロ初本塁打、代打で登場し江川から一発
開幕を2軍で迎えた八木氏は5月に1軍昇格を果たした。初出場は5月12日の巨人戦(後楽園)。8回から三塁守備に就き、9回の初打席は角三男投手の前に三振だった。「掛布さんの調子が悪くなって、呼ばれて後楽園球場に行きました。テレビで見ていた巨人の選手がいる、すげぇってね(笑)。初打席は角さん。初球から振ったかどうかも覚えていませんが、ボールが速い、速く感じるなぁって、思いましたね」。
翌5月13日の同カードでの2試合目の出場ではプロ初安打初打点を初本塁打で飾った。0-5の8回表に代打で登場し、江川卓投手から左翼席へ1号ソロを放った。「(当時の阪神監督の)吉田(義男)さんはそういうチャンスをくれたんです。(初打席が)駄目でも、すぐにね。それはありがたかったですよ。でも、もう舐めていたんですよ、江川さんは僕を。カーブを投げてきて、たまたまタイミングがあってホームラン。真っ直ぐを放っていれば、打てなかったのに(笑)」。
プロ1年目は69試合、120打数21安打の打率.175、2本塁打、11打点。5月30日の巨人戦(後楽園)から7月2日の大洋戦(横浜)までは、腰痛などで戦列を離れた掛布に代わって、24試合連続でスタメン起用された。「掛布さんの代役ができるわけないし、いい経験をさせてもらっているなと思いながら出ていましたけど、いかんせん実力がないから、うまくいかないなと思うことが多かったです」。とにかく無我夢中。あらゆる意味で勉強のシーズンだった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)