阪神監督から「米国に行ってくれ」 思わぬ武者修業に戸惑いも…覚醒生んだ「ジャンクフード」

阪神で活躍した八木裕氏【写真:山口真司】
阪神で活躍した八木裕氏【写真:山口真司】

元阪神の八木氏が振り返る、プロ2年目の野球留学

 大きな転機になった。元阪神の“長距離砲”八木裕氏(野球評論家)は、1988年のプロ2年目のほとんどを「リチャード・ヤギ」としてプレーした。このシーズンから阪神監督に就任した村山実氏の指令で3月のオープン戦終盤から米国に野球留学し、1Aフレズノ・サンズの一員となり、そこで、そう名乗っていた。「行けと言われた時はびっくりしましたけど、自分にとっては本当にあの時、アメリカに行ってよかったと思います」。体力も技術も変わったという。

 阪神が村山体制になった1988年シーズン、八木氏の背番号は「14」から「3」に変わった。「村山さんに言われたんです。『3番をつけろ』って。(監督が)吉田(義男)さんから村山さんに変わって、背番号も結構多くの選手が変わったんですよ」。“吉田色”から“村山色”へ。背番号の変動もその一環として行われたようだ。わずか1年で「14」を卒業し、一桁「3」を背負うのだから、期待の大きさも感じさせたが、開幕前にして通達されたのは米国留学だった。

「最初は横谷(総一内野手)が行く予定だったのが、急に僕に変わったというのは後から聞きました。なぜ、そうなったのかはわからないんですけどね」。同じ岡山出身で中学、高校時代のライバル・横谷は1983年のドラフト外で岡山南から阪神入りしていた。八木氏はそれから遅れること3年、岡山東商から社会人野球・三菱自動車水島を経て1986年ドラフト3位で阪神に入団。かつてのライバルとプロで同僚となり、切磋琢磨していたが、またも運命が交差した。

 プロ2年目の飛躍を誓い、張り切っていた開幕間近に村山監督から伝えられたそうだ。「オープン戦がもう終わる頃ですよ。『アメリカに行ってくれ』と言われました。『はい、わかりました』と答えましたけど、びっくりはしましたね」。留学した選手は八木氏を含めて4人。「今は審判をしている真鍋(勝己投手)、左投げの多岐(篤司投手)、池田高校出身の宮内(仁一外野手)と僕。引率が(元阪神投手の)上田二朗さんでした」。

 気持ちを切り替えて米国に旅立ったが、1Aフレズノ・サンズでの生活は当初、戸惑うことが多かったという。「シングルAと言っても一番レベルの高いカリフォルニアリーグ。いいピッチャーが多いし、いかんせんボールが速い。日本のピッチャーとは全然違う。それにあの頃、向こうのボールはあまり飛ばなかった。日本のボールの方が飛んでいましたよ。だから、それに順応するためにも一生懸命、やらなきゃなって思いました」。

米国で痛感したパワー不足「めちゃめちゃ細かった」

 まずトレーニングに力を入れたそうだ。「通訳はいないし、言葉の壁もあったりして大変なんですけど、何が足りないって言えば、圧倒的にパワーが足りなかった。その頃の僕は182センチで69キロくらい。めちゃめちゃ細かったんです。当時の阪神ってトレーニングをガンガンやるチームじゃなかったですしね。でもアメリカでやるには必要だと思ったので、4種類くらいの鉄アレイを買ってきて、それを使って部屋でトレーニングを始めたんです」。

 結果は大成功だった。「まあ、食べていたのが、ほとんどジャンクフードだったんですけど、半年間で10キロ太りました。筋肉もつきましたよ。体が大きくなって、アメリカでは、最初の時と終わり頃の打球は、全然、飛び方が違ったと思います。向こうのファンクラブ、ブースタークラブみたいなのが、その地域にあって、そこの表彰式で、一番成長した選手にも選ばれましたから。『それはリチャード・ヤギだ』ってね」。

 八木氏は米国留学中、「リチャード」と呼ばれていた。「向こうに行った時に、あっちの選手が呼びにくいから、一応、アメリカンネームみたいなのを考えろってみんな言われたんですよ。で、僕はリチャード。自分でつけたんです。意味は八木の反対が“ギヤ”なんで(米国の俳優)リチャード・ギア(ギヤ)の反対。もともとは(阪神に)一緒に入った同期の先輩が、僕のことを“ギヤギヤ”って呼んでいたんです。それを思い出して“じゃあ、これにしたろう”って」。

 パワフルになった八木氏は、その年の9月、日本に帰国。9月7日の中日戦(甲子園)の途中出場を皮切りに、9試合に出場した。9月18日の広島戦(甲子園)に8番三塁で起用された以外は代打、代走が中心で、9打席無安打5三振が、2年目の成績だった。「日本のピッチャーのボールが遅すぎてね。変化球も遅すぎて待てなかった。合わなかった。今の日本のピッチャーは球が速いですけど、あの頃は遅すぎて全然バットに当たらなかったんです」と苦笑した。

 だが、手応えは感じていた。「飛距離とかは飛躍的に伸びたと思うし、日本のピッチャーの球に慣れてきたら、まぁ……。僕がその後、レギュラーになれたのも、ホームランが増えたのも、あの年があったから。あのまま1年目と同じことをしていたら、多分、ああはなっていないと思います」。まさに米国留学が八木氏の野球人生を好転させた。この1988年限りでミスタータイガース・掛布が引退。入れ替わるように翌1989年からは“虎の背番号3”の躍動が始まる。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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