閑古鳥鳴く甲子園…阪神暗黒期の絶望感 宿敵巨人に“●●●”、主砲が抱えた重責

阪神時代の八木裕氏【写真提供:産経新聞社】
阪神時代の八木裕氏【写真提供:産経新聞社】

1991年に阪神・八木裕氏は初の4番を経験、22HRも…チームは2年連続最下位

 初めて130試合出場も果たしたが……。元阪神の“代打の神様”として有名な八木裕氏(野球評論家)だが、若手時代は“虎の期待の大砲”だった。プロ5年目の1991年は4月9日からの巨人3連戦(甲子園)で3試合連続本塁打をマークするなど、派手な活躍もあった。5月には初の4番起用も経験するなど、22本塁打をマークしたが、チームは2年連続最下位。首位に26ゲーム差、5位にも16ゲーム差をつけられ「責任も感じていました」と振り返った。

 中村勝広監督率いる1991年の阪神は開幕5連敗と最悪のスタート。そんな中で、奮闘したのが当時25歳の大砲・八木氏だった。前年の1990年に28本塁打をマークした若虎は4月6日の大洋戦(横浜)に「7番・三塁」で2年連続開幕スタメンの座をつかんで躍動。2-7で敗れた開幕2戦目4月9日の巨人戦(甲子園)では完投勝利の桑田真澄投手から1号ソロを放つなど2打点と気を吐いた。「桑田は結構好きだった。多分、モーションと軌道が合うんだと思います」。

 6-9で敗れた10日も9回裏に完投勝利の香田勲男投手から2号3ランをかっ飛ばし、2-7で敗戦の11日の試合でも、これまた完投勝利の木田優夫投手から8回に3号ソロ。この年の本拠地・甲子園での開幕カードとなった巨人3連戦で3タテを喫する屈辱的な展開で、3試合連発の八木氏のバットは阪神にとって、それこそ唯一の明るい材料だった。4月16日の広島戦(広島)からは「5番・三塁」で起用された。

「僕は高校時代(岡山県立岡山東商)からそうなんですけど、4月終わりから5月にかかる時期が得意なんです。で、6月が苦手で、7、8月はその後、まあまあ得意になってくる。大体、そのバイオリズムが一緒。何かあるわけではなく、たまたまそうなっちゃうんですけどね」。その年の5月も4本塁打を放つなど好調で、5月30日のヤクルト戦(甲子園)では、阪神の「第66代4番打者」になった。3番がトーマス・オマリー内野手、5番はマーベル・ウイン外野手だった。

阪神で活躍した八木裕氏【写真:山口真司】
阪神で活躍した八木裕氏【写真:山口真司】

「8、9月になったらお客さんも全然いなかった」

 この時はわずか3試合の「4番」。6月5日の中日戦(ナゴヤ球場)からは岡田彰布内野手が4番に復帰し、「5番」に戻った八木氏は苦手な6月も8試合連続安打など主軸打者として懸命にプレーした。だが、チームはとにかく勝てなかった。6月1日の大洋戦(甲子園)から球団初の10連敗を喫し、14日の中日戦(甲子園)にようやく勝ったものの、翌15日の同カードから、さらに7連敗とまさに“地獄モード”だった。

「いやぁ、弱かったです。その頃はチームのレギュラーとして責任も感じだした時。(6月8日の誕生日で)26歳だったけど、選手会のこともやるようになっていたし、弱いなっていうのはちょっと残念なことだから、何とか強くならないかっていうのをよく考えていました。岡田さんや和田(豊)さんとかと“何が悪い”、“何がいい”とかね。点を取ってもまた点を取られて、みたいな負けも多かったけどピッチャーも一生懸命、投げていたし、どっちがいい悪いじゃなくてね」

 巨人との伝統の一戦は7勝19敗。1990年の6勝20敗に続く、大負けだった。八木氏はサイドスローの斎藤雅樹投手が苦手だったそうで「打った記憶がほとんどない。抑えられたことばかり覚えています。僕自身、真っ直ぐには強いと思っていたので、なぜ打てないのだろうってずっと思っていました。横からスピードガン以上のものが来るから、その違和感で抑えられたとは思うんですけどね」と渋い表情で話した。

 この年の八木氏はプロ入り初めて全130試合に出場し、打率.250、22本塁打、64打点。9月6日の大洋戦(横浜)では佐々木主浩投手から18号ソロも放ったが「それは大魔神になる前ですね」と笑い、こう続けた。「8、9月になったらもうお客さんも全然いなかったイメージがあります。特定の人がベンチの上で怒っていて、きついヤジというか、文句もよく言われました」。

 5位大洋からも16ゲーム差をつけられての、ぶっちぎり最下位だったのだから、虎ファンもさぞかしフラストレーションが溜まったことだろう。もちろん、選手たちも監督ら首脳陣も悪い状況を打開したいとの思いでいっぱいだった。そして、翌1992年の阪神は一転して優勝争いを繰り広げることに……。八木氏にとっても思い出深いシーズンがやってくる。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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