深夜の校庭に響いた不思議な音 赤星憲広氏が振り返る“強烈な記憶”…「なんだろう?」

赤星氏が振り返る中学時代の“濃い思い出”
異例の現役選手が中学生チームを創設。そのきっかけは自身の“実体験”だった。阪神で活躍した赤星憲広氏がオーナーを務める「レッドスターベースボールクラブ」は、2005年の設立から20年以上の歴史を誇る。主に中学生を対象とした硬式少年野球チームで、OBにはロッテ・安田尚憲内野手や元ヤクルトの田川賢吾投手らがいる。
赤星氏が中学野球に“着眼”した理由がある。「中学生になると、自分だけじゃなくてチーム自体のことを考え始めたり、周りの子たちのことを考えたりすると思うんです。僕の経験でも周りの選手を『どう生かすか』みたいなことを考えているタイミングでした。そういう意味でも、中学の3年間は野球を続けていく上でも、違うステージに進む場合でも、ある意味で大人の第一歩という感じがするんですよね。野球をやるだけじゃなくて、組織での考え方だとか自分の立ち位置だとかですね」。力説する赤星氏には衝撃的な思い出がある。
「僕が中学生の頃、監督が1年、2年、3年で毎年変わったんですよね……。入学した頃の監督さんが長年指導されている方で。有名な方だったので『よし、この人と野球がやれる』と思っていました。すると、2年生になるタイミングで“転勤”ということで監督が変わって……。次の監督さんは野球経験がなく『ド素人』だったんです(笑)」
まさかの展開にナインたちはモチベーションが上がらない時期もあった。「『ノックするぞ!』と言ってバットを振るんですけど、15分くらい振っても、1回もまともに当たらないんですよ、監督なのに」。そっぽを向く選手もいる中で、赤星氏は“衝撃の光景”を目撃してしまったのだった。
「夜にランニングをしていたんです。学校の近くを回っていました。すると、そこに『コン、コン』って音がするんですよ。『なんだろう?』と思ってグラウンドを覗いたら、新しい監督がノックの練習をずっとしていたんです。次の日に見たら、監督の手は血だらけだったんですよ」
思いもしない光景を見た赤星氏は、より奮起した。ただ、3年生になると、また新しい監督になった。「あの監督もとんでもなく変わった先生でした。今の野球のように1番打てるバッターから順番に並べていました。それだけでよかったんですけど『7番以降はどうでもいい』とか言ってしまうタイプの方で……。そういう雰囲気もあって、3番打者とエースが練習に来なくなってしまったんですよね……」。エース“不在”の間は、赤星氏が投手を務めた

11社からの誘い…赤星氏が進路を選択した“決め手”
「でも、やっぱりね。『あいつに投げさせてください』って監督にお願いしたんです。実際にエースが投げた試合で、点は取られましたけど、なんとか勝ちました。最後の最後、これを勝てば県大会だ、という試合で僕が投げて負けたんです。試合後に監督から『お前で打たれて負けるなんて仕方ないだろう。このチームはお前が引っ張って頑張ってきたんだから。だから誰もが納得している。あいつが投げとってみ? 誰も納得せえへんて』と言葉をもらいました。その先の人生を左右する上でも、中学の3年間は大きかったなと思っています」
サッカーをプレーしていた赤星氏が本格的に野球を始めたのは中学からのため「僕にとっては分岐点」とも語る。「僕は最終的にね、プロ野球選手になれましたけど。正直、僕もなれるとは思ってなくて。だからこそ社会人まで行って、就職も当時11社から誘われていたんですけど、野球の強いところを選ばなかったんですよ。プロに行けなかった時の将来のことを考えて会社を選んだんです」。野球の技術が全てではない。
「そこから運良くプロの世界に行けましたけど、結局、プロに行ける確率というのは、相当低いわけじゃないですか。だから(チームの)レッドスターで学んだことが将来的に生きてくれればいいなと思っています。時代が変わってきているからこそね。将来的に野球から離れても生きることがあると思います」
子どもも大人も、ユニホームを着て“伸びしろ”を探す。「子どもたちだけが進化していくわけじゃなくて、指導者の進化も必要なわけなんですよね。指導者もアップデートしていかないといけない。辛い練習がいいとか、厳しいことがいいとか、そういうことだけじゃないと思っています」。魂が宿った瞳は、聖地の方向を見つめていた。
(Full-Count編集部)