“浮上”した阪神新監督「試合どころじゃなかった」 ベンチ騒然…届いた報せ「大変なことに」|球界群像 八木裕#20
神宮のベンチでミーティングする阪神ナイン【写真提供:産経新聞社】ヤクルトの指揮官退任直後…阪神監督に就任した野村克也氏
1999年、阪神の監督に名将・野村克也氏が就任した。前年の1998年までヤクルト監督を9年間務めており、“横滑り”での異動だった。世間をあっと言わせた外部招へい劇だったが、この人事について、当時阪神選手だった八木裕氏(野球評論家)は「(オフに)発表された時に驚きはなかったです」と話す。1998年シーズン終盤に情報が阪神内を駆け巡っていたからだという。「ヤクルト戦の試合中だったんですけどね」と振り返った。
野村氏の阪神監督就任は、1998年10月25日に正式発表された。10月15日に球団から要請を受け、その日に受諾したとされた。阪神は同年までの5年間で4位1回、5位1回、最下位3回と低迷が続いており、チーム再建に球団OBではなく、ID野球でヤクルトを4度のリーグ優勝、3度の日本一に導いた名将に白羽の矢を立てた。その年まで同じセ・リーグ球団の監督だっただけに大きな話題になったが、八木氏は「びっくりはしませんでした」と話す。
初めてマスコミに「阪神が野村監督を招へい」と報じられた時も「“ああ、やっぱり本当だったんだ”って思っただけでした」と、それより前に察知していたそうだ。「(1998年)シーズン最後の方の神宮球場でのヤクルト戦で、試合中に『来年、どうも野村さんが(阪神の)監督をするらしいぞ』っていう噂が(阪神サイドで)駆け巡ったんですよ。まだ野村さんが向こう(ヤクルト)におられるのにね。それでびっくりして、もう試合どころじゃなかったです」。
阪神で活躍した八木裕氏【写真:山口真司】学んだ“野村の考え”「頭に入れていかなきゃなと」
高知・安芸キャンプでは、“野村の考え”を勉強する日々だったという。「僕は野村さんの本を読んだことがあったんですけど、(1999年は)34歳になる年で、もうベテランだから一生懸命ついていって頭に入れていかなきゃなと思っていました。ヤクルトの時はノートにとらせて、書かせていたそうですけど、みんなできたわけじゃなかったらしいです。その反省があったので、(阪神では)プリントしたものをすべて渡して“見て覚えなさい、考えなさい”みたいな感じでした」。
“野村の考え”は野球だけを学ぶものではない。「“人生とは”から始まるんでね。人間をまずちゃんとしないといけないっていうことから」。八木氏も、もう一度自分自身を見つめ直し、プロ13年目の1999年シーズンに臨んだ。
しかし、78試合出場で打率.182(77打数14安打)、1本塁打、8打点に終わった。「若い選手をどんどん使ってチームを作る時だったし、我々(ベテラン)はもう代打で十分ってことでしたね」と話したようにスタメン出場は数えるほどで、ほとんどが代打での出場。その辺はスタメンと代打の併用で調子をキープさせてくれた前監督の吉田義男氏とは異なるものだった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)
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