36歳で打率1割台&1HR…「引退させられる」 野村監督の辞任で急展開、阪神元4番を救った“奇縁”

阪神現役時代の八木裕氏【写真提供:産経新聞社】
阪神現役時代の八木裕氏【写真提供:産経新聞社】

野村克也監督体制で不振「状況的にヤバい」…覚悟した引退

 元阪神の“代打の神様”八木裕氏(野球評論家)は、1999年から2001年までの3年間の野村克也監督体制で不振にあえいだ。代打中心の出番ながら1999年は1本塁打、8打点。2000年は開幕2軍スタートの5本塁打、15打点。プロ15年目の2001年も85試合で打率.198(121打数24安打)、1本塁打、15打点に終わった。当時36歳。「状況的にもうヤバい。この年で引退させられるんじゃないかと思っていました」と振り返った。

 名将・野村氏の阪神監督就任で世間の注目度は大幅にアップしたが、チーム成績は上がらなかった。1999年の“ノムさん1年目”は6月上旬に中日と同率首位に立つなど健闘したが、その後は尻すぼみ。9月には球団ワーストタイの12連敗を喫して最下位に沈んだ。2000年は4月に1引き分けを挟んで9連勝するなど盛り上げたものの、5月以降は一度も月間勝ち越しなしで、またもや最下位だった。

 八木氏にとっても苦しいシーズンが続いた。1999年は1本塁打に終わり、巻き返しを期した2000年は開幕1軍にも入れなかった。「野村さんの1年目に結果が芳しくなかったし、(巨人を自由契約になった)広沢(克実)さんが入って(ベテラン右打者は)2人いらないし、枠の問題もあって僕が外れました。でも成績的にそれもしょうがない、チャンスをもらうまで我慢しかないと思っていました」。

 この年の1軍初出場は6月15日の中日戦(甲子園)で、調子を落とした広沢と入れ替わった。「5番・一塁」でスタメン起用され、4打数2安打5打点。2本塁打の大暴れで勝利に貢献した。八木氏はそれまでも久々のスタメンなど、“休み明け”に強い傾向があった。「まぁ、それは集中力の問題だと思いますけどね。その中日戦も、1軍行きを急に前の日の夜に言われて、そこから、ずっと集中していましたし……。いきなりスタメンで使ってくれたのも良かったと思います」。

 しかし、年間トータルでは5本塁打、15打点。打点は“代打の神様”と名付けられた1998年の31打点から半減した。「代打もチャンスばかりじゃなかったですしね。野村さんはファンのことをしっかり考えているので、巨人戦とかで大敗していると『すまんけど代打に行って盛り上げてくれないか』って言われたこともあった。ランナーなしではやりにくいけど、それもしかたない。野村さんの考えだし、言っていることはよくわかるんでね」と話したが、調整は難しかったようだ。

元阪神・八木裕氏【写真:山口真司】
元阪神・八木裕氏【写真:山口真司】

「真実は知りませんけど」…現役続行に繋がったと見られる監督人事

 2001年は開幕1軍。4月25日の巨人戦(甲子園)で2-6の8回に條辺剛投手から代打3ランを放って気を吐いたが、その年の本塁打は、この1本だけだった。「その頃ってチームも弱いし、何か自分のコンディションも含めてこのままでいいのかなって感じになっていました」。野村体制3年目も阪神はビリ。吉田義男監督時代の1998年から4年連続最下位となった。そんな中で通算1739安打の和田豊内野手が現役を引退したが、八木氏にとっても他人事ではなかったという。

「成績を残せなかったし、僕も引退かなと思っていました。戦力外と言われたら、他球団も獲ってくれないでしょうし、引退するしかない。ホント、もうヤバいなって考えていましたよ」。八木氏は、怪我のために1軍出場なしに終わったプロ10年目の1996年もクビを覚悟しながら「(その年のオフに監督就任の)吉田さんに救われたと思う」と話していたが、この2001年オフも同じ“感覚”があったという。

 続投予定だった野村監督が、12月に沙知代夫人の脱税問題で辞任を表明。その年に中日監督を退任したばかりの星野仙一氏が監督に就任した。八木氏は「まぁ、わかりませんよ。わかりませんし、真実は知りませんけど、星野さんになったので(引退が)回避され、契約していただけるようになったと僕は思っています。星野さんは岡山の先輩で、つながりもちょっとあったんでね」と真剣な表情で話した。

 野村体制から星野体制へ。もはやギリギリの“立場”とはいえ、八木氏はもう一度奮い立った。2002年は打率、本塁打、打点の3部門とも2001年よりも数字を上げてアピール。プロ17年目に突入した2003年は、ついに阪神で悲願のリーグ優勝を経験する。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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