甲子園8強も…監督が「医者になりなさい」 “最下位クラス”偏差値27からの挑戦|高校野球のその先〜元球児たちの履歴書〜#2

桐蔭学園OBで現在は医師として活躍する中澤良太さん【写真:本人提供】
桐蔭学園OBで現在は医師として活躍する中澤良太さん【写真:本人提供】

U18侍Jチームドクターの中澤良太さんは桐蔭学園時代は主将も務めた

 高校生活3年間のほとんどの時間を費やし、白球を追いかける。しかし球児たちの“ゴール”はプロ野球選手だけではない。野球に打ち込んだ経験を生かし、さまざまなフィールドで羽ばたく今に迫る連載「高校野球のその先〜元球児たちの履歴書〜」。第2回は桐蔭学園高(神奈川)で1999年夏に2年生ながら二塁レギュラーとして甲子園8強入りを果たした中澤良太さん。現在は山梨県・加納岩総合病院の院長で、13日に閉幕した「第14回 BFA U18アジア野球選手権」では侍ジャパンのチームドクターを務めた。

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 物心ついたときから近所の公園でボールを投げてバットを振っていた。小学3年で野球チームに入り、地元の中学校では軟式野球部で関東大会出場。その姿が桐蔭学園中の野球部監督の目に留まり、桐蔭学園高に進むことになる。“野球留学”の決断も「強いところでやりたいというのが勝っていたので、外に出ることに抵抗はなかったですね」と家を出ることを決めた。

 父は加納岩総合病院の理事長を務めており、周囲からは「良太は医学部に」と言われていた。しかし小学校の卒業文集に「スポーツ関係の仕事に就く」と書いていた中澤さんは「両親は『好きなところに行きなさい』という感じでしたし、医学部に行く気は毛頭なかったです。上のレベルで野球をやりたいと思っていたし、野球がダメだったとしても医者になるという選択肢はそもそもなくて」と苦笑いで振り返った。

 強豪進学後は「軟式上がりだったのでボールも捕れないくらいで不安だった」というものの、新チームになったときに試合に出られることを目標にひたすら練習を重ねた。犠打や守備を重視するチーム方針を理解し「どちらかというとそっちのほうが得意だったので、そこをアピールしました」。その甲斐あって新チームで遊撃のレギュラーを掴み、肩の故障で二塁に回ったが2年時に激戦の神奈川大会を勝ち抜き甲子園切符を手にした。

“聖地”では初戦(2回戦)の敦賀(福井)戦で適時打を含む4打数2安打。その後はノーヒットだったが、8強という栄光を手にした。1年後、再び帰ってくることを誓って甲子園を去ったが、主将を務めた3年時は県大会5回戦で東海大相模に敗れた。しばらくは喪失感に襲われるほど、そのショックは計り知れなかった。

「確か5回にヒット、犠打、二塁打で3球で1点取られて『まだまだ行けるよ』と言っている間に0-1で終わっちゃったんです。引退後はしばらく、ずっと夢に出てきていました。『まだ試合がある、まだ行けるかもしれない』という夢を見て、起きたら『あ、夢だった。終わっている』って。自分の中では“まだ終わっていない”と思いたかったのかもしれませんね。あっという間に駆け抜けた高校3年間でした」

1999年夏、甲子園8強入りに貢献した中澤さん【写真:本人提供】
1999年夏、甲子園8強入りに貢献した中澤さん【写真:本人提供】

予備校で正解率が低すぎてマークミスを注意されるも「実力だったんです」

 引退後、進路を相談するため両親、監督を交えた面談が行われた。中澤さんは同校OBで東海大でプレーしていた平野恵一氏(2001年ドラフト自由枠でオリックス入り)に憧れ、東海大への進学を目指していた。監督にも意向を伝えていたはずだが、面談の席で耳にしたのは思わぬ言葉だった。

「僕の人生の特徴的なところだと思うんですけど、医学部受験は監督が決めました(笑)。面談のときに『いろいろなところから(誘いが)来ていたけど全部断っておいたから、お前は医者になりなさい』って言われて。両親もビックリしていましたよ」

 上のレベルで野球を続けたいという志を持っていたため戸惑った。しかし「ちょっと先を見ちゃったっていうのはありますね」。3年時に足首を故障して痛みをこらえながらプレーしていた。また身長164センチと小柄で「今では小柄でも活躍している選手は増えましたが、当時育成枠というものもなかったですし、基本的には高身長で体格のいい人がプロ野球選手になるものだと思っていたので、やっぱり狭き門だよなって。それならやるしかないと思って『勉強します』って言ったのがスタートです」と新たな挑戦が始まった。

“挫折”はすぐに訪れる。「当然なんですけど全然勉強していなかったので。数学の偏差値が27とかだったんですよ。11月くらいに『これは絶対に無理だ』とわかって、両親に土下座をして『やっぱり野球に行かせてください』って」。両親は意思を尊重してくれたが、すでに推薦入試も終わっている。野球の道に進むにしても浪人だった。「どうせ浪人なら勉強しますと。抵抗したのはあのときだけ。そこからはもう、未練なくずっと勉強しました」と明かした。

「全然勉強ができなかったので、逆に言えばやればやるだけどんどん伸びるおもしろさを感じました。あとは高校時代が寮生活で息抜きで遊ぶことを知らなかったので、ストレスなく勉強できたのはあります」と振り返るように、とにかく勉強漬けだった。予備校には一番最初に行き、一番最後に帰ることを自身のノルマとして2年間続けた。「素振りと同じで、他人がやっていないときにやらないと追いつけないと思っていたので。それをやり遂げられたのは自分を褒めたいかな」と胸を張った。

 成績順にクラス編成される桐蔭学園高では3年間、ほとんどが一番下のクラスだった。予備校で初めて試験を受けた際、あまりの正解率の低さに「医学部はマークミスが命取りだから気をつけなさい」と怒られたが、「実力だったんです。マークミスだと思われるくらい頭が悪すぎて」。今では笑い話だが、努力の結果、1年後には偏差値が50〜55まで達していた。一般的に医学部合格は偏差値60〜70と言われている。「もうちょいやればいけるという変な自信はあったので、続けられました」。2浪を経て、日大医学部合格を果たした。

高校時代は二塁手として活躍した【写真:本人提供】
高校時代は二塁手として活躍した【写真:本人提供】

「育った地元に帰ってきて、完全に恩返しだと思っています」

 とはいえ医学部合格はゴールではない。医学部を卒業し、医師免許を取得するまで「とにかく勉強が大変でした」。そんなとき活きたのが、高校時代に内野コーチだった片桐健一氏から言われ続けた「意識、イメージ、準備」だった。常に高い意識を持ち、起こり得るあらゆることをイメージし、そのための準備をする。「それを人よりもやった自負はあります。高校時代もそうだし、医学部受験、医学部に入ってから、医者になってからも、その思考がつくれたのは自分の人生においてすごくよかったです」と感謝した。

 現在は整形外科医として外来と入院患者の診療、整形外科の手術を担う。また2023年10月から院長を務めており、経営会議や医師会の参加、地域医療を行うための会議に参加するなど多忙な日々を過ごす。「育った地元に帰ってきて、完全に恩返しだと思っています。整形外科は“生き死に”みたいなジャンルではなく、洗濯物が干せないとか旅行に行けないみたいな“生き地獄”を救う診療科。少子高齢化が進み働く高齢者が多いこの地で、そこを救うところにモチベーションを感じます」と充実の表情を浮かべた。

 さらにスポーツ整形外科医として青少年アスリートの現場復帰に貢献し、高校野球の大会サポートや野球肘の検診活動なども行っている。U12やU15、大学や女子侍ジャパンのメディカルチェックの仕事を経験し、今回はU18に同行した。かつて自らも夢中になった野球に違った形で携わり、「『今この知識があったら高校時代もっとできたな』というのがいっぱいあるので、それを今のうちから伝えられるのはすごくやりがいを感じています。痛くなる前に見つけるとか、怪我をした後も『こうなら試合に出られるよ』という提案ができる医師になりたいと思ってやっています」と話す。

「挫折したときに『これで終わりだ』と思うのではなく『サクセスストーリーのための布石だ』くらいに思えて次の努力をできたのは、小さいときから野球に打ち込んだ積み重ねだと思います。野球は3割、4割打って素晴らしいと言われるくらい失敗が多い。1個の失敗で何を学ぶか、次のアクションを自然に繰り出すスポーツだと思うので。また9回2死からでも逆転できるのも魅力のひとつなので、最後の最後まで諦めずに考えて行動できる人間になるのは、野球で培えたのかなと感じます」

 険しい道程を乗り越えてきた中澤さんが、野球に、そして地元への貢献を続けていく。

(町田利衣 / Rie Machida)

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