契約交渉で激怒「ここでは野球できません」 前年最多勝に衝撃提示…直訴した「どっかに出して」

阪急からオリックスへ球団身売り…大減俸提示で大モメ
NPB通算112勝右腕の山沖之彦氏は、阪急時代の1987年に19勝を挙げてパ・リーグ最多勝に輝いた。しかし、プロ7年目の1988年は7勝止まり。チームはオリックスに“身売り”した。「あの時はショックでした」と話すが、大モメとなったのは、契約更改交渉だ。そのオフに新球団のフロントから大減俸提示を受け「ここでは野球ができません」とトレードを直訴。お世話になった“仲裁人”の登場で、何とか残留したという。
19勝の翌年は7勝。山沖氏は「1年頑張ると、ちょっと休むみたいなピッチャー。まぁ、こんなもんやと思うんですけどね」と苦笑した。この年は25登板、すべて先発起用での結果。3完封を含む6完投もあったが、史上229人目の1000投球回を達成した5月17日の南海戦(大阪)では門田博光外野手に2ランを浴びるなど、3回2/3、7失点でKOされたように、いい時と悪い時の差があり、負け数は勝ち数を上回る「12」だった。
「1000投球回の時に門田さんに打たれたのは覚えていないけど、門田さんは怖かったし、凄かったですよ。自分が1年目(1982年)の時かな。全打席インコース真っすぐで勝負したんですけど、そしたら言うんですよ。『顔から下はナンボ来てもええ。上だけは来るな!』って。それでもインコースには投げたけど、もう厳しくは行かれへんやん。で、門田さんは開いて打ちに来るんですからね……」。門田氏といえば、そんな内角攻めのことが、すぐ思い出されるそうだ。
門田氏に限らず、厳しい内角攻めをするために山沖氏は現役時代、他球団の選手と会話をしないように心掛けていたという。「昔はそうやったんですよ。『情が移るから、しゃべるな』って言われていましたからね。挨拶も、オープン戦の時かなんかに1回は終わっているはずや、ってね。今みたいに(他球団の選手と)あんな仲良しじゃなかったですよ」。そんなことにも神経を尖らせながら、勝ち星をつかんでいったわけだ。
「ここでは野球できませんので、どっかに出してください」
しかし、7年目は7勝12敗、防御率4.98と数字を落とした。さらには阪急がオリエント・リース(オリックス)に“身売り”した。「もうびっくりですよ、突然。自分らが知ったのは発表の日(10月19日)ですもん。それよりちょっと前に南海が(ダイエーになって)福岡に行くってなったでしょ。大変だなぁなんて思っていたら……。やっぱりショックでしたよ。自分は阪急に入ったわけですからね」。大阪から福岡移転の南海とは違って本拠地は西宮のまま(1991年に神戸)だったが、寂しい思いだったという。
その上、愕然となったのが新球団フロントとの契約更改交渉だった。「最初の提示は30何%のダウンだったんですよ。(25%以上のダウンは規定で)本人の承諾があればOKとかあるでしょ。そんなん、するわけがないじゃないですか。前の年に(最多勝の)タイトル獲って給料が上がって、翌年ドーンと落とすんかいって。『ウチの方針だから』とか言われたから『わかりました。なら、ここでは野球できませんので、どっかに出してください』と言いましたよ」。
大モメだった。「『それか、提示が変わるまでハンコを押しません』って。キャンプ間際まで押しませんでした」。泥沼化していたのが、何とか解決となったのは“仲裁人”の登場があってのことだったという。「阪急の球団社長だった土田(善久)さんに『頼む、押してくれ』って言われたんです。お世話になった社長やしね。もう関係ないのに、自分のために出てきてくれて……。それで押した。(年俸)金額はいくらか変わったと思うけど、もうそんなに見ずにね」。
山沖氏は「本当に阪急にはお世話になったんですよ。だから反対にオリックスは自分のことが煙たかったと思いますけどね」と振り返ったが、“ひとたび、ユニホームを着れば、グラウンド外のことは関係なく、全力を尽くした。オリックス元年”の1989年は再び2桁の11勝をマーク。「ようけ、阪急の選手を切っていったけど、自分は残っていましたからね」。そこからの活躍には“阪急魂”の意地もあったのかもしれない。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)