令和の現代なら「とんでもない」 自然に鍛えられた肩…3球団競合右腕が熱中した“遊び”

元日本ハム・田中富生氏【写真:山口真司】
元日本ハム・田中富生氏【写真:山口真司】

1982年ドラフトで3球団が競合…日本ハムで1年目から活躍した田中富生氏

 1982年日本ハムドラフト1位で背番号「11」をつけ、プロ1年目から活躍した右腕が田中富生氏だ。愛媛県立南宇和高時代にはエースとして甲子園出場を果たし、法大では4年春に東京六大学野球リーグ優勝に貢献。ドラフトでは日本ハム、広島、ロッテの3球団が入札1位で競合した注目投手だった。1987年オフに中日へのトレード移籍も経験。加えて故障とも闘うプロ野球人生となったが、その原点は小学生時代の「石投げ」と「水泳」だった。

 1960年4月12日生まれの田中氏は、愛媛県南宇和郡御荘町(現在は他の町村と合併して愛南町)出身。「野球は小学校(町立平城小)の低学年からかなぁ。近所の年上の人たちと柔らかいボールを使って……。ただ、その頃はグラウンドとか野球場とか全然なかったんで、稲を刈り終わった後の田んぼでね。あと、夏は田んぼに水を送った後の池が干上がって、結構広い場所になるんで、そこでやっていました」。

 プロ野球については「それほど興味はなかった」と話すが、テレビ中継は見ていたという。「当時はジャイアンツの試合しかやっていないんでね。勉強部屋には(巨人の)長嶋(茂雄)さんのポスターを貼っていました。長嶋さんが(三塁守備で)捕って、投げるヤツをね」。スポーツは球技が得意。「走るのとかは今イチだったんで、投げるとかそういうのがよかったですね」。その頃から肩は強かったそうだ。

 田中氏は笑みを浮かべながら「特に鍛えてはいなかったけど、ただ石は投げていたんですよ」と明かした。「当時の道は砂利だから石コロはいっぱいあるんです。で、田んぼがあって、その先に川が流れていて、その向こうが畑と山。そっちに向かって石を投げていました。50メートルぐらいはあったんじゃないかな。川は越えて、畑までは届いたり、届かなかったり。石によっても違いましたけどね」。

 きっかけは“先輩”との遊びだった。「ウチの地区には同級生がほとんどいなくて、いつも年上と遊んでいたんですが、ある時『あの木に石が当たるか』っていうのをやって。それからですね。学校が終わって、帰ってから一人で石を投げるようになったのは。今はそういう環境とかないでしょうし、石なんか投げていたら、とんでもないですよね。でも、あの頃は見られてもガミガミ言われることもなかった」。続けているうちに、より遠くまで投げられるようになったそうだ。

小学時代は水泳やサッカーで活躍も…中学で軟式野球部へ

 さらには「水泳で体ができた感じでした。小学校4年か5年ぐらいかな。それまで太っていたんですけど、水泳をやるようになって、ちょっと締まって、背も伸びてきたというか……」と振り返る。「自由形で学校の代表になって(御荘)町内の大会では結構1位になったと思います。(水泳の)賞状が一番多くて、部屋に飾っていた覚えがあるのでね」。小学校時代は他にもサッカーで愛媛県大会に出場したそうで、運動神経はやはり高かったのだろう。

 そんな中、田中氏は御荘町立(現在は愛南町立)御荘中では、水泳部やサッカー部を考えることなく軟式野球部に入部した。「やっぱり、野球が面白いって思ったし、それに(幼い頃から遊んだ)近所の“先輩”が中学になると野球部に結構入っていて、その流れもあってね。自分がやりたいというよりも、その環境が一番大きかったと思いますね」。中学の監督らからは投手をやるように言われたという。

「入った頃から一応ピッチャー。1年の時は上級生にエースがいたので、外野やファーストもやったりしていましたけどね。その時、身長は170手前くらいかなぁ。体は大きい方だったし、肩も強かったですからね。あの頃は体が大きくて、ある程度投げられればピッチャーに回るって感じもあったし……」。小学生時代の“石投げ効果”で右肩はたくましくなっていたし、“水泳効果”で体力も強化されていた。

 中学1年の時は試合で投げる機会がなかったそうだが、中学2年からは「ちょこちょこエースと交代で投げるようになったと思う」と順調な野球部生活だった。だが、その中学2年の夏に、ちょっとした出来事があったという。「あの時は怖かったです……」。それは野球部が南宇和郡大会で早々に負けたために、水泳部の助っ人としてかり出されたのが発端だった。思わぬ“水泳効果”が発生した。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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