先輩の包囲網「あれは怖かった」 迫られた“残留”…元ドラ1の恐怖体験「あの時、屈してたら」

元日本ハム・田中富生氏【写真:山口真司】
元日本ハム・田中富生氏【写真:山口真司】

中2の夏、助っ人で参加した水泳大会でリレーの優勝に貢献

 元日本ハム、中日右腕の田中富生氏は1975年、愛媛・南宇和郡御荘町立(現在は愛南町立)御荘中学3年時に軟式野球部のエースとして愛媛県大会に出場した。県内外の強豪校からも勧誘される投手に成長したが、その1年前の中学2年夏には、野球部から離脱する可能性があったという。「昼休みに1年上の先輩たちに呼び出され、囲まれて……。あの時、屈していたら(その後の人生も)変わっていたかもしれませんね」と話した。

 御荘中で田中氏は1年から投手練習をしていたが、「上級生もいたし、外野やファーストもやっていました。試合では投げていません」と話す。投手での出番は3年生が“引退”してから。「(1学年)上にエースがいましたが、その頃からちょこちょこ投げるようになりました」と野球部生活は順調だった。2年夏は南宇和郡大会で敗退したが、次はいよいよ自身が最上級生エースとなって臨む年。気合も入れ直して練習に励んだが、そこに至るまでに“ひと騒動”があった。

 それは1974年の中学2年の夏、野球部が郡大会で早々に負けた後のことだ。「野球部のメンバーは負けると陸上部とか他の部に回ったりするんです。私は水泳が得意だったので、『ちょっと水泳部を助けてやってくれ』って顧問の先生に言われて水泳部に(助っ人として)行ったんです。で、800メートルリレーだったかな、郡で優勝しちゃったんですよ」。田中氏には小学校時代に小学生大会の自由形で町内1位になるなど水泳の実績があり、その実力を見せつけた形だった。

「顧問の先生にはメドレーリレーでバタフライをやる人間がいないから、それもちょっとやってみてくれって言われた。バタフライは初めてでしたけど、一応見よう見まねでやって……。75メートルくらいで腕が上がらなくなって『先生やっぱりできません』って言ったんですけど『いや、大丈夫。それぐらい泳げればできるわ』って言われて、結局大会に出たんです。バタフライで100メートルを泳がなければいけなかったんですが、気持ちが入ったのか、泳ぎきれたんですけどね」。大活躍だったわけだ。

昼休みに先輩から呼び出し…「あれは怖かった」

「当時は“野球をやっている人は、水泳をやっちゃ駄目”なんて言われていた時代だった。今はそうじゃないですし、私も水泳をやっていて、よかったと思う。特にバタフライは肩を回しますからね。水泳の練習は結構、きつかったけど、そういうのをやってきたから体力もついたと思います」と田中氏は話したが、この水泳選手としての能力が思わぬ事態も引き起こした。

「リレーで県大会出場権を得たんですけど、私は野球部の練習があるから出るつもりはなかったんです。そしたら、水泳部の3年生に昼休みだったかな、呼び出されたんです」。指定の場所に一人で行くと、そこには3年生がズラリといて、水泳部に残るように迫られたそうだ。「グルーッと囲まれてね。田舎の方だから、まだ可愛いものだと思いますが、あれは怖かったですね。学校で幅をきかせていた3年生もいたし……」。

 そんな中で「野球をやるので、水泳はできません」と断ったそうだ。「あの頃はやっぱり野球の方がよかったんでね。やっぱりあれかな。チームプレーというか、そういう方が好きだったのかもしれない」と笑いながら振り返りつつ「あの時、屈していたら、ちょっと(その後の人生が)変わっていたかもしれない」とうなずいた。それこそ、あれだけ追い込まれた状況で、勇気を出して“水泳より野球”を主張したことで、野球人生はつながったともいえるわけだ。

 翌1975年、中学3年の田中氏は野球部のエースとして成長した姿を見せた。「郡大会で優勝して、南予大会も勝って、県大会に行きました。県大会の成績は覚えていないなぁ。優勝はしてないですけどね」。3年時は野球で県大会に進んだから、他の部の助っ人に行く時間はなく、水泳部の話も再燃することはなかったし、“本業”の野球で強豪高校から誘われるまでになった。最終的には地元の県立南宇和高への進学を決断。踏みとどまった野球で、今度は甲子園を目指しての戦いが始まる。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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