日米の野球をつないだ「2人の開拓者」 伝説の選手が中日に…愛犬の名前は「ゴンドウ」

1989年当時のラリー・ドビー【写真:Getty Images】
1989年当時のラリー・ドビー【写真:Getty Images】

「酒屋のオヤジ」だった元名選手、中日での挑戦を決意

 メジャーリーグ公式サイトが、「2人のMLBレジェンドは日本で先駆者となった」と題して、1962年に中日でプレーしたラリー・ドビー外野手(享年79)とドン・ニューカム投手(享年92)を紹介している。アメリカではドビーとニューカムが日本で1年プレーしたことは忘れられているが、記事はドビー氏の息子のドビーJr.氏の証言をもとに「日本では『パイオニア』として記憶に刻まれている」と評している。

 1962年に2人が中日と契約した時、ドビーとニューカムはともに選手としては終わりを迎えていた。ドビーはメジャーで最後の試合出場からおよそ3年経過しており、ニューカムは前年、3Aのパシフィックコーストリーグのスポケーンで投手だった。ただ、中日からはチームの救世主として尊敬され、祝福されたのだという。

 その理由をドビーJr.氏は「私の父とニューカム氏は日本で大いに敬意を払われていた。おそらくNPBでプレーする初のメジャーリーガーだったからだろう」と語る。米軍基地に属していた「アルバイト選手」を除けば、メジャーリーグの経験がある選手が日本プロ野球に身を投じるのは初めてだった。

 始まりは偶然だった。記事は「日本球界の関係者2人と通訳があるバーに足を踏み入れたことで、ニューカムとドビーが日本プロ野球を変えることになった」と指摘している。1962年のニューカムは、ニュージャージー州ニューアークで酒屋とカクテルラウンジを運営していた。ある日3人はニューカムを訪ね、日本でプレーしないかと誘った。しかも投手ではなく、主に一塁手としてのオファーだった。

 ニューカムは1956年には27勝を挙げ、ナ・リーグの最多勝に輝いた。その年リーグチャンピオンとなったドジャースは、ワールドシリーズ終了後に日本を訪れており、日本にはなじみがあった。ドラゴンズは、ロビン・ロバーツや後にヤンキース監督となるビリー・マーチンなども獲得しようとして断られていたが、ニューカムはオファーを受け入れた。

メジャーリーガーが日本でプレーする“時代”の始まり

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