「オファーがあるうちに帰る」 メジャーから広島へ…米国の活躍支えた“逆説的”思考

広島に戻ったタイミングは「あの年しかなかったんだと思う」と語る黒田博樹氏【写真:荒川祐史】
広島に戻ったタイミングは「あの年しかなかったんだと思う」と語る黒田博樹氏【写真:荒川祐史】

意外に聞こえる…メジャーで結果を出そうと頑張った理由

 広島とメジャーで20年のプロ生活を送った黒田博樹氏は、メジャーを経験したからこそ41歳まで現役を続けられたという。「カープで過ごした最初の11年と最後の2年は、同じチームでもまったく違う感じ方の中で野球ができたと思います」。そう語る黒田氏にとって、メジャーでの7年は広島への想いがあったからこそ成立した時間でもあったようだ。黒田氏の米国期にスポットを当てた連載(全5回)の第3回は「繋げる」について。

 少し逆説的に聞こえるかもしれないが、「日本に帰る決断をするために、日々メジャーで結果を残そうと頑張っていた」と黒田氏は言う。その心は……。

「こうなったから言うわけではなく、個人的にはメジャーで結果を残せなかったら日本には帰らないでおこうと思っていたんです。向こうで結果を残せなかったら向こうでやりきろうって。結果が出なくなって日本に帰るという選択肢は考えていなかった。結果を残して、まだ契約オファーがあるうちに帰るというのが、僕のモチベーションでした。だから、そのような決断ができるように頑張っていた感じがします」

 広島に帰る決断をしたのは2014年のオフ。ヤンキースで3年目、39歳の年は32試合に先発し、11勝9敗、防御率3.71。ヤンキース先発陣の中では唯一ローテーションを守り抜き、移籍1年目で13勝を挙げた田中将大(現楽天)に次ぐ勝ち頭だった。古巣のドジャースなど複数球団からオファーを受けていたのも不思議ではない。

「もちろん悩みましたよ。メジャーは非常にドライな部分があって、実績があっても戦力にならなかったらオファーはない。その中で39歳の年にオファーをもらえた事実は、契約金額云々ではなく、達成感が大きかったです。やりきった感というか、そういうものがありました。

 あと1年メジャーでやって、40歳で日本に帰るチャンスはあったのかもしれない。でも、僕としては日本に帰ってきても戦力として最低限、先発なら先発らしい成績を残さないと意味がないと思っていた。果たしてそれができるかどうか、そこが一番不安でした。年齢的・体力的な部分の怖さと、また改めて日本の野球環境に慣れていかないといけない怖さがあったので、非常に悩みましたけど、あの年しかなかったんだったんだと思います」

帰った広島で経験した優勝「もう許してほしいなって」

 メジャーでは7年で212試合に登板。6年で30試合以上に先発、防御率3点台を記録する安定したパフォーマンスを積み重ね、日本人投手は壊れやすいというイメージを覆した。メジャー移籍を目指す次世代の日本人投手たちのために“信頼性”という価値を高め、繋いだ。8年ぶりに戻った広島でもまた、次に繋げる意識を持ち続けた。

「どこまでできていたかは分からないですけど、何かカープにとってプラスになればいいと思いましたし、ファンの皆さんには『カープはメジャー契約のオファーがあっても帰ってきたいと思えるチームなんだ』と思ってほしかった。20年以上優勝経験がない中、負けても負けても応援し続けてくれる。優勝を知らないファンに、やっぱりカープを応援し続けてよかったと思ってもらいたい。その想いが大きかったですね」

 広島に戻って2年目の2016年、チームは25年ぶりのリーグ優勝を飾った。優勝を知らないファンに最高のプレゼントを届けると、24試合に投げて10勝8敗、防御率3.09という好成績を残しながらユニホームを脱いだ。

「優勝もでき、自分の中でやりきったという思いがありました。先発であればしっかりローテーションを守って、先発の責任を果たしていく。これは何歳であっても、任された以上は求めていかなければいけないと思うので、42歳のシーズンを迎えようとはいう気はまったくなかったですね。最後のシーズンも自分の体がどういう反応をするのか分からなかった。もしかしたら、春先からまったく投げられなくなるかも分からない。そういう怖さが強くある中、フラフラしながらでしたけど、なんとかやりきった。これまで継続してきてこれたからこそ、そこは逆にこだわりたかった。だから、もういいんじゃないか、もう許してほしいなって思いましたね(笑)」

 もし現役のままでいれば、登板間隔を大きく空けながら投げ続けることはできたかもしれない。「でも、それは僕がやってきた野球観ではないし、だったら若い選手にマウンドを譲っていった方がいいのかなと」。責任を持って妥協を許さず、常に真摯な姿勢で野球と向き合ってきたからこそ、野球を相手に真剣勝負を続けてきたからこそ、「やりきった」という達成感とともに「許してほしい」という思いが出たのだろう。

「30代でメジャーに行って、あれだけ競争意識の高いリーグの中でやりきれたことに1つの達成感がありましたし、その達成感があったから、最後に日本に帰って何かをやり遂げたいという気持ちにもなった。しかも、広島に帰ってきて優勝できたというのは、野球人として、もうこれ以上の達成感はないでしょう」

ラスト2年のマウンド姿から若手に感じてほしかった想い

 メジャーで感じた競争意識の高さは、日本とはまた別次元のものだった。マイナー最下層のルーキーリーグから5段階よじ登らなければメジャーには到達しない。さらにメジャー契約を結べるのは40人という狭き門。メジャー契約を勝ち取っても、結果が出なければ誰であれ、その座を追われてしまう。若手からベテランまで自分の居場所を守るために必死。その高い競争意識に奮い立たされた。

「春のキャンプには招待選手を含め、投手だけでもとんでもない人数がいる。そこからふるいに掛けられて、最後に開幕ロースター入りしても、メジャーに1年間居続けるための努力をしなければいけない。やっぱりメジャーはしんどいし、その経験ができたことは大きかったと思います。僕がいつも思うのは、ユニホームを着ているうちしか(活躍できる)チャンスはない。今、2軍でなかなか結果が出ない選手もユニホームを着ている間はチャンスがある。どんな選手もその間は必死で野球と向き合って頑張ってほしいと思うんです」

 広島で過ごした最後の2年、若手選手たちへ直接的にこの想いを伝えたことはない。「言葉をかけてあげたいとは思いましたけど、まずは自分が成績で示さないと誰も話を聞いてくれないので」。40歳を超えたベテランになろうとも、マウンド上では妥協を許さずに結果を求めて投げ続けた。

「結果なり姿勢なりを見てもらって、周りに分かってもらうという感じで」

 背番号15をつけた広い背中が発する力強いメッセージは、選手だけではなく、ファンの心にも届いていたのではないだろうか。

(佐藤直子 / Naoko Sato)

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