1年後輩の“スター”を「ひがんでいた」 念願の昇格も補充要員…喜びむなしい初HR

中日で活躍した野球評論家・彦野利勝氏【写真:山口真司】
中日で活躍した野球評論家・彦野利勝氏【写真:山口真司】

彦野利勝氏は3年目の1985年に1軍初昇格…初本塁打も記録した

 発奮材料は後輩の1軍昇格だった。1982年ドラフト5位で愛知高から中日入りした彦野利勝外野手(現野球評論家)はプロ1年目(1983年)も2年目(1984年)も1軍出場はなかった。「2年目は2軍でクリーンアップを打って、ホームランも十数本。成績も悪くなかったので、いつ呼ばれるかなって期待感があったんですけどね」。悔しかったのは1年後輩のドラフト1位ルーキー・藤王康晴内野手に先を越されたことだった。

「1年目は2軍でしかたないと思いました。大した成績も残していませんでしたから。でも2年目はね。藤王が途中から1軍に行って、あいつ、上でも打ったじゃないですか。ちょっとひがんでいました。僕の方が打つんじゃないかって勝手に思っていましたしね」。愛知県一宮市出身の藤王は享栄高時代の1983年選抜大会で11打席連続出塁、3試合で打率9割と大活躍。ベスト8で敗退したが、一気に名を上げ、ドラフト1位で中日入りした。

「彼は地元のスーパースターでしたし、1回上げてみようって感じで1軍に行ったなって僕も思っていたんですけど、そのまま1軍でも打っちゃっいましたからね。何かそこで抜かれた感じもしました」。同時に、このままでは終われない気持ちも湧き上がった。「僕も2軍である程度、成績も残せたし、自信も徐々についてきましたからね」。残念ながら、その年は上から呼ばれなかったが、3年目の1985年、ついに1軍昇格を果たした。

「でも、これは補充でした。大島(康徳)さんが怪我をされたのでね。だから上がってもなかなか試合に出られませんでした」。初出場は1985年6月21日の巨人戦(ナゴヤ球場)。8回に代打で三振だった。その後は6月26日の阪神戦(ナゴヤ球場)と6月28日の広島戦(広島市民)に代打で三振。7月4日の大洋戦(ナゴヤ球場)は途中出場で右翼守備だけ。代打4打席目の7月14日の大洋戦(宮城)で遠藤一彦投手からプロ初安打をマークした。

「3打席連続三振で4打席目がヒット。みんなに『よかったな。寿命が延びたな』なんて言われたんですけどね」。次の出場の7月18日のヤクルト戦(神宮)は途中から右翼守備のみ。それで2軍落ちとなった。「何でかといったら大島さんの怪我が治ったから」。この年は10月の消化試合に1軍に再昇格。10月24日での広島とのダブルヘッダー第1試合(広島市民)の9回に代打で白武佳久投手からプロ初ホームランを放った。

プロ5年目の1987年、星野仙一氏が中日監督に就任

「あの試合は、負け展開の最後に『代打で行きたい人』って言われて、手を挙げたら『じゃあ、お前行け』ってなったんです。ホームランを打って“やったぁ”と思いましたね。喜んでいたのは僕だけでしたけど、ちょっとだけやっと野球選手になったような気がしました。これで2試合目はスタメンかなって思ったら、出場せずに終わりましたけどね」

 続くプロ4年目、1986年の彦野氏は19試合に出場して21打数5安打、0本塁打、2打点。チームが下位に低迷し、シーズン途中で山内一弘監督が休養、高木守道守備コーチが1軍監督代行に就任。彦野氏は消化試合の10月15日のヤクルト戦(神宮)に「7番・右翼」で初のスタメン出場を果たして3打数2安打2打点と活躍したが「その試合は、あまり覚えていない」という。それよりも「4年が終わってしまったなって感じでした」。芽生えてきたのは危機感だった。

「プロに入る時に言われていたんですよ。『地元の高校生は、5年はいいよ』って。それは5年で駄目ならクビになるんじゃないかってことですからね。何とかしなければいけないと思いました」。1986年オフに星野仙一氏が新監督に就任し、この年、5位に終わった中日ナインに「覚悟しとけ!」と呼びかけた。彦野氏は浜松秋季キャンプから、それこそ、もう後がないつもりで、必死に取り組んだ。

 実際、ここから彦野氏は飛躍していく。1986年までは、1軍出場試合数、安打数、本塁打数、打点数のすべてで藤王よりも下回っていたが、1987年からは、逆に大きく上回った。闘将に鍛えられて、レギュラーの座もつかみ、1988年から3年連続でゴールデン・グラブ賞に輝くなど、セ・リーグを代表する外野手に成長していった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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