挨拶代わりの“危険球”…捕手がとばっちり「よく怒られた」 衝撃のハチャメチャ投法
大石友好氏は1年目から東尾修氏とバッテリー「びっくりでした」
大エースとの出会いが大きな財産になった。ドラフト3位で河合楽器から西武に入団した大石友好捕手はプロ1年目から存在感を見せつけた。初出場、初スタメンは1980年4月5日の日本ハムとの開幕戦(後楽園)。延長10回1-2でサヨナラ負けを喫したものの「8番・捕手」でいきなりフルイニング出場も果たした。西武の開幕投手は東尾修氏。大石氏がもっとも感謝する恩人であり、偉大な投手とバッテリーを組めたことがこの先の野球人生につながった。
1954年1月15日生まれの大石氏は26歳でプロ1年目を迎えた。合同自主トレではスター選手揃いに緊張したそうだ。「野村(克也)さん、土井(正博)さん、田淵(幸一)さん、東尾さん、山崎(裕之)さん……。今までテレビで見てきた球界を代表する選手ばかりでしたからね。そういう方々に挨拶して一緒に練習した時に、やっとプロに入れたなって実感しましたね」。とはいえ、感激してばかりもいられない。
「社会人の監督やコーチ、先輩たちには『5年は野球をやらなきゃ駄目だぞ』って言われていましたし、年齢的に1年目が勝負。そこで1軍に残れないようでは終わってしまうと思ったので、自主トレ、キャンプともう必死でした」。西武のキャンプ地はその年から高知県春野町になった。徳島出身の大石氏は「親とか友達とかも見に来たから、余計力が入った」という。「体力面では社会人で自信を持っていたので、実戦になっていかに結果を残していくか、考えましたね」。
もちろん、アピールポイントは肩。「スローイングとキャッチング、守備に関しては他のキャッチャーに負けないと思ってやっていました」。そんななかで大きかったのは、オープン戦から東尾氏とのコンビが増えたことだ。「東尾さんが僕を指名してくれたんです」。それも実戦守備で結果を出していたからこそだが、エースとバッテリーを組めるようになったのは、あらゆる面で大石氏をさらに成長させていった。
ルーキー捕手でいきなり開幕スタメン。「その試合はよく覚えているというか、印象に残っていますね。1-1で延長10回裏、(日本ハムの)島田誠にライト前。一、二塁間にきれいにサヨナラヒットを打たれて負けて悔しかったけど、これで何かやれるな、何かつかんだというかね。1軍で、開幕で凄く緊張したんですけどね」。開幕戦は黒星となったが、その後も東尾氏が先発の時はマスクを被るケースが増え、白星という結果も出した。
「東尾さんにはびっくりでした。シュートとスライダーでこれだけの幅を使えるなんてってね。それまで僕がキャッチャーをやっていて、右バッターのインコースにスライダーを放る発想は全くなかった。東尾さんが初めて教えてくれた。右バッターにインコースからスライダー、左バッターの外からスライダー。こういう使い方は初めてだった。それとやはりコントロール。バッターの胸元スレスレのボール、低めの膝元ギリギリのところに放り切りますからね」
有望選手にはOP戦から駆け引き「常に先のことまで考えていた」
技術の凄さを感じ取るとともに勉強になることばかりだった。「4隅、4隅ですからね。(捕手として)とてもやりがいがあったし、面白いし、途中からは何を放りたいというのもだいたいわかるようになりました」。東尾氏といえば厳しい内角攻めのケンカ投法でも知られるが「ギリギリのところを狙いますからね。そういう球も使わなければいけないのが東尾さんの戦略というか……。僕はよく怒られましたけどね、バッターの先輩方に」と笑みを浮かべながら振り返った。
思い出は尽きない。「東尾さんの考えで、これから出てきそうな選手とかにはオープン戦の時から頭の上を通したり、胸元に厳しいボールを絶対1球は入れていましたね。当てるんじゃない。怖いぞという印象付けです。挨拶がてらね。それができることもすごいですよ。次に生きてくる。東尾さんは常に先のことまで考えていたんです。出てきそうにない選手にはやらないですよ」。
東尾氏とはノーサインのサイン交換なしで試合に臨んだことさえもあったという。「3年目か4年目かなぁ、相手に考えさせない。ボールを受け取ったらすぐ投げるってことで、東尾さんからの提案でやりました。決めていたのは東尾さんがボールを受け取った時の指(の位置)でインコースとアウトコース。口を開けたらフォーク。それだけでした」。球種はフォーク以外わからないから大変なはずだが、大石氏は東尾氏の考えを想定して、ノーミスで乗り切ったそうだ。
「そのやり方で3試合やって2勝1敗だったかな。捕っては投げだから、無茶苦茶(試合時間は)早かったですよ。まぁ、そういうのでも鍛えられました。どんなボールにも対応しなければいけないからキャッチングもよくなりますからね」。まさに東尾氏は最大の恩人であり、最高の先生でもあったのだろう。「僕がプロでやれたのは東尾さんに会えたからです。一緒にバッテリーを組ませてもらったからです」と大石氏は感謝している。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)