球団に「バカにされていた」 初の10勝も納得いかない年俸…交渉で迫った“一筆”

中日、ロッテでプレーした牛島和彦氏【写真:山口真司】
中日、ロッテでプレーした牛島和彦氏【写真:山口真司】

牛島和彦氏は4年目に初の10勝も…球団の評価はシビアだった

 元中日投手の牛島和彦氏(野球評論家)はプロ4年目を終えた1983年オフの契約更改交渉で球団フロントに“猛烈要求”を突きつけた。「来年(1984年)誰から見ても納得する成績を残したら、好きなだけ(年俸を)上げてやると一筆書いてくださいって言ったんです」。いったいなぜ、こんな話になったのか。フロントの反応はどうだったのか。年に1回の契約交渉での“激熱バトル”。その背景などを本人が語った。

 1983年の牛島氏は37登板、10勝8敗7セーブ、防御率4.50。開幕から守護神を務め、オールスターゲームにも初出場した。だが、1982年シーズンに続く優勝を目指したチームは7月終了時点で最下位に低迷するなど、厳しい展開。最終的には5位に終わった。そんななか牛島氏も苦しみながらも奮闘を続けた。8月5日の広島戦(ナゴヤ球場)からは先発に回って7回3失点で8勝目、8月10日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)では8回2失点で9勝目をマークした。

 プロ入り初の2桁、10勝に到達したのは9月1日の巨人戦(後楽園)だ。7回2/3を3失点で白星をつかんだ。その後は先発で黒星を2つ重ねた後、リリーフに戻って、シーズンを終えた。そして迎えた契約更改交渉だった。牛島氏は2年目のオフに「来年(1982年)結果を出したら寮を出してください」と要望して、3年目に7勝4敗17セーブ、防御率1.40で優勝に貢献。約束通り、退寮を“勝ち取る”など、年に1回の交渉では言いたいことを言うタイプだった。

 4年目オフのアピールポイントはもちろん、初の10勝だった。結果は500万円アップの1800万円(金額は推定)だったが「2桁の評価はしてもらえなかったですね。リリーフでの勝ちが多いから10勝の評価はできないって言われました」。そこで牛島氏が口にしたのが「来シーズン、誰から見ても納得する成績を残したら、好きなだけ上げてやると紙に書いて僕にください」だった。提示された金額にサインした後、鈴木恕夫球団代表らフロントにそう言ったという。

リーグ最多29セーブの5年目オフ…希望額を書いて「これだけください」

「書いてくれませんでしたけどね。もうバカにされていましたから。『わかった、わかった』っていうだけでね」と牛島氏は振り返ったが、この時のやりとりを忘れることはなかった。「それを自分のなかで、よーしっていうふうに思ってやっていましたからね」。実際、これまで以上に気合も入っていたのかもしれない。翌1984年の中日は2位。プロ5年目の牛島氏は守護神としてフル回転し、リーグ最多、自己最高の29セーブをマークした。

 そのオフの契約更改交渉で牛島氏は希望額を書いて「これだけください」と球団フロントに迫ったという。「そしたら『駄目だ』って言われたから『何で駄目なんですか、去年約束したじゃないですか。駄目だとは言わずに、わかった、わかったって言っていましたよねぇ。そういう話をして僕は発奮してやったわけですから』って言ったんですけどね。『その金額にしたらチームで一番高くなるから他とのバランスが取れない』とか言われてね……」。

 その年の牛島氏は希望額にこそ届かなかったものの、倍増の年俸3600万円(推定)でサインしている。契約交渉も駆け引きありの闘いの場。「なかなか給料が上がらない時代でしたからね。まぁ僕も契約更改で遊んでいましたよねぇ」と笑うが、そこまでやった選手もそう多くはいないはずだ。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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