念願の入団も“愕然”「プロじゃないですよ」 逃げ隠れる選手…ロッカーに響く「ガラッ」

元ロッテ・初芝清氏【写真:片倉尚文】
元ロッテ・初芝清氏【写真:片倉尚文】

1989年にロッテ入団の初芝清氏…本拠地の“現実”に愕然

「いやいや、プロじゃないですよ」。ロッテ一筋で打点王を獲得するなど強打の内野手として「ミスターロッテ」と呼ばれ、現在は社会人野球「オールフロンティア」で監督を務める初芝清氏。1989年に念願のプロ入りを果たしたが、ホームグラウンドの“現実”には愕然としたという。デビューイヤーを回想した。

 初芝氏は二松学舎大付高(東京)時代は、まさかのドラフト指名なし。リベンジを誓って社会人の東芝府中で4年間鍛え抜き、指名を得た。やっとの思いで掴んだプロの晴れ舞台。とはいえパ・リーグはまだまだメディアの露出が少ない時代で、「オリオンズ」だったロッテに関する知識は、ほぼ皆無に近かった。「有藤(通世=この年の登録名は道世)さん、愛甲(猛)さん、水上(善雄)さんぐらいしか名前を知りませんでした」。

 本拠地についても、よく知らなかった。プロの球場と希望を膨らませて川崎球場に足を踏み入れてみたら……。「いやいや、プロじゃないですよ。失礼かもしれませんけど。ロッカーはかび臭いし、もう湿気は凄いし」。ドラフト4位ルーキーは、開場1952年と歴史があり過ぎる? スタジアムに目を白黒させるしかなかった。

 鹿児島キャンプを経てオープン戦で脱臼した。開幕1軍とはいかなかったものの、5月30日の日本ハム戦で途中からサードに入ってプロ初出場。記念すべき一歩も本拠地から始まった。以降、川崎球場で試合を重ねれば重ねる程に“別の現実”をまざまざと思い知らされる。「土日は観客が増えるんですが、平日はね。社会人野球は、あまりお客さんがいなかったので僕は違和感はなかったですけど。シートノックを受けている時に数えられるんですよ。1人、2人、3人……きょうは6人だな、とか」。寒い光景が広がっていた。

 一方で、有藤監督の指導は熱かった。「人間的に厳しかったです。怖いし、デカいし、よく鉄拳も飛んできました」。初芝氏は後には仲人をお願いすることになる恩師から鉄則を叩き込まれた。「プロでやっていく以上はインコースを打てないと長くできねぇからな、と。プロですから真っ直ぐが速いのは、皆そう。特にパ・リーグの投手は当時から速かったですから」。17年間プレーし続けていく中で、貴重な助言だった。

 先代「ミスターロッテ」の指揮官は“鉄は熱いうちに打て”を地で行った。初芝氏が打席で詰まるのを現認するや、試合中にも関わらず「行って来い!」と命令が下る。いったい何処へというのか。

 川崎球場は、隣に室内練習場が設置されていた。「室内はすぐそこですから、行ってマシンをセットして打ち込むのです。チェンジになる直前に呼び戻されて、守備に就く。次の回に打席が回ってこないなら、またマシン打撃。試合中ずーっと、その繰り返し」。ベンチに座って休む暇などない。実戦と練習が並行する濃密な時間を過ごした。

ロッカーのドアの音は2軍通告の知らせ…「休みなしが当たり前」の日々

 プロは実力の世界だ。川崎球場内には、ロッカー室が3つあった。「レギュラーの野手組、ピッチャー組、そして“その他諸々”です。僕も最初の頃は、その他諸々のロッカーでした」。選手間の位置付けが明確に仕切られていた。

「その他諸々」組は、試合後の“音”に敏感だった。「コーチがロッカーのドアを『ガラッ』と開けると、誰かがファームに落とされるんです。選手に通告するために入って来たという事です。だからドアが開いた瞬間、みんなサッと慌てて隠れるんですよ。2軍行きを聞かされたくないので。隠れても無駄なのに」。生き残りを懸けた緊張感はプロの厳しさを教えてくれた。

 初芝氏の1年目の記憶は、練習漬けの日々に尽きる。「入団してオールスターが開催される期間までは1日も休みがなかったですね。遠征先に移動しても、そこで練習。ビジターから帰ってきても、必ず川崎球場で練習でした。でも、それが当たり前だと思ってやってましたね」。ルーキーながら70試合に出場し、7本塁打を放った。

 川崎球場は1991年シーズン限りで、ロッテの本拠地の役割を終えた。現在は改修され、別競技の競技場となっている。

 何だか遠い夢物語のように思える原点の場所。「もう川崎球場を知っている人も、そんなにいない時代なんですね」。初芝氏はかみ締めるように呟いた。

(西村大輔 / Taisuke Nishimura)

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