1軍登板ゼロ→阪神戦力外 引退試合の提案も固辞…確信した“新天地”での復活
田村勤氏は“野村阪神”1年目に40登板…酷評されながらも重用された
阪神の元守護神・田村勤氏はプロ9年目の1999年に40登板、1勝1敗1セーブ、防御率4.64の成績を残した。前年の1998年は左肩を痛めて1軍どころか、2軍でも登板できなかったのが、またまたの復活だった。しかし、浮き沈みの激しい野球人生は非情だ。翌2000年は再び不調に陥り、1軍登板ゼロで戦力外を通告された。それでも田村氏は諦めなかった。現役にこだわった。新天地・オリックスへの道をたぐり寄せた。
1999年シーズン、阪神監督に野村克也氏が就任した。前年は左肩痛のため、登板なしに終わっていた田村氏だが、体制が変わって、またチャンスをつかんだ。5月下旬に1軍昇格。「僕はストレートとスライダーだけ。野村さんには『その年齢(1軍復帰当時は33歳)になって、それだけって、今まで何やっていたんや!』とよく言われましたけど、使ってくれたんですよ」。同じ左のサイドスローとして遠山奬志投手もいたなかでの起用だった。
「どっちかというと、遠山が主体で(巨人の)松井(秀喜外野手)とかに使われて、僕は松井以外の左バッターとか“脇役”をやっていた感じでしたね」。過去には“松井殺し”の実績もあり、元守護神でもあった田村氏だからプライドも傷つくところだろう。だが、そんな部分はかけらも見せず、やれることに全力を尽くした。
「野村さんがカメラに映るブルペンのピッチャーを見るじゃないですか。僕は映っているなと思ったら、チェンジアップの練習をしていました。阪神の時は試合では使いませんでしたけどね」。“ストレートとスライダー以外もやっていますよ”のアピール。主役でも脇役でも関係ない。試合に使ってもらうことに喜びを感じ、とにかく貪欲だった。その結果が、またまた復活のシーズン40登板につながったわけだ。
1軍登板ゼロの2000年オフに戦力外通告…現役にこだわりテスト経てオリ加入
だが、長続きしないのも田村氏の野球人生の特徴でもあった。翌2000年は1軍登板なし。「前の年に40試合とか投げたら、必ず反動が出るという感じでしたね。春から調子が悪かった。球が走らなかったですから。紅白戦だったか、シートバッティングだったかで、野村さんに見てもらった時も全然ボールがいかず、これは使ってもらえないだろうなと思っていましたよ」。左肩の状態もまた思わしくなかったそうだ。
「あの年は2軍に(元中日守護神の)与田(剛投手)もいて、2人でよくキャッチボールをやっていました。鳴尾浜で、かつての抑え同士でね」。上から声がかかることなく、戦力外通告を受けた。「引退試合とか、サヨナラ登板とかをやるかって聞かれたんですけど、“ひょっとしたらオリックスが獲ってくれるかも”との話があったので断りました」。阪神一筋でユニホームを脱ぐことより現役続行にこだわった。「もう無理だというところまで投げたかったのでね」。
幼少時に、野球に関して父・甲子夫さんから言われた「無理だと思うまでやれ!」。それを貫いた。入団が確定していたわけではない状態でオリックス行きにすべてかけた。「ここで諦めたらアカンやろって思っていました」。そしてテストを経て、新天地への道をつかんだ。現役続行への強い気持ちと執念が実った。
「オリックスでは仰木(彬)監督がよく使ってくれたんですよ。阪神の時には使わなかったチェンジアップばかり投げていましたけどね」。野村監督にアピールするために練習したチェンジアップが、オリックスで役立ったという。移籍1年目の2001年は39登板。前年1軍ゼロから、またまたまたの復活だ。技術もさることながら、強靱な精神力がなければ、こんなに何度も立ち上がれないだろう。まさに不屈の闘志だった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)