ドラ1指名も「報道陣が誰もいなかった」 知らなかった阪神人気…一変した“注目度”

元阪神・中田良弘氏【写真:山口真司】
元阪神・中田良弘氏【写真:山口真司】

中田良弘氏は日産自動車から阪神のドラ1位指名…報道陣はいなかった

 社会人野球・日産自動車の右腕・中田良弘投手(現野球評論家)は1980年ドラフト会議で阪神から1位指名を受けた。東海大・原辰徳内野手、プリンスホテル・石毛宏典内野手、横浜高・愛甲猛投手ら目玉選手がいた中で、阪神が単独入札の1本釣りを決めたが、当初は横浜市内の日産自動車の寮に報道陣はゼロ。その場にいたのは「寮のおじちゃんとおばちゃんだけだった」という。それが一気に変わった。阪神が人気球団であることを初めて認識したという。

 1980年11月26日、東京・飯田橋のホテルグランドパレスでプロ野球ドラフト会議が開催された。中田氏はいつも通り出勤していたが、ドラフトが始まる頃には寮に戻ってきたという。「(横浜市の)生麦にあった寮からちょっと海寄りの方の工場にある事務所で事務仕事をしていたんですが、上司に『すみません、もしかしたらドラフトにかかるかもしれないんで早めに帰っていいですか』と言ったら『おう、帰れ、帰れ』と言われたのでね」。

 ドラフト前日に中田氏は阪神・田丸仁スカウトから「1本(入札1位)で行くから勝負しないか」とラブコールを受け「わかりました、お願いします」と答えていた。それまで巨人か大洋を志望していたのが一転していたのだが、マスコミには全く漏れていなかったのだろう。「寮の食堂でおじちゃんとおばちゃんと3人で(ドラフト中継の)テレビを見ていました。指名されるまで報道陣は誰ひとりいなかったんですよ」と話す。

「原さんとか(横浜高の後輩の)愛甲とか有名な選手のところにはカメラマンがいっぱいいましたよね。3人でテレビを見ながら『他は取材陣の数がすごいなぁ』なんて話もしていました。おじちゃんやおばちゃんからは『中田君、本当にドラフトにかかるの』って聞かれましたよ。で、パンチョ伊東(伊東一雄)さんに『阪神タイガース、中田良弘、日産自動車、投手』と言われた時には『あっ、俺だ』となって3人で『やったね』ってね。他の部員も仕事中でいなかったですしね」

一気に増えた報道陣…阪神が人気球団とは「知らなかった」

 それが中田氏の阪神1位指名の瞬間だった。その後になって報道陣が押し寄せてきたという。「ホント、そこからですよ。寮にウワーっと一気に来ました。あれもすごかったですね。前の日に田丸スカウトと話して、阪神から指名されるとはわかっていましたけど、僕はそれまで阪神がこんなに人気がある球団なんて知らなかったんですよ。あの当時は“巨人対どこどこ”って感じだったですからね」。

 阪神入団は決意しており、交渉もトントン拍子に進んで契約完了。背番号は球団に提示された「28」に決まった。ただ、当初は関西弁に慣れなかったという。「先輩とかに『アホか』とか言われて、やっぱり(言葉が)きついなぁと思いましたね」。そのうち先輩や同い年の選手からは「ちゅんた」や「ちゅんちゃん」。年下の選手からは「ちゅんたさん」と呼ばれるようになった。

「“中”が麻雀の“ちゅん”ってことでね。そう言われるようになったのは阪神に入ってからですけどね」。日産自動車時代には映画「サタデー・ナイト・フィーバー」で主演を務めた超人気俳優、ジョン・トラボルタに似ているということでニックネームは「ジョン」だった。それを報道陣に聞かれて話したところ「虎のトラボルタ」との異名もつけられたが、あくまでマスコミ用。阪神内では中田氏のことを「トラボルタ」はもちろん「ジョン」と呼ぶ人は誰もいなかったそうだ。

 時間が経過するとともに、徐々に関西生活になじんでいった中田氏だが、人気球団・阪神の“凄さ”は入ってから、さらに思い知ることになる。それはドラフト1位指名を日産自動車の寮のおじちゃんとおばちゃんと3人だけで喜んだ時には想像もしていなかった世界だったに違いない。1981年の入団1年目から厳しい試練がやってくる。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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