清原和博から「お前か、泣かせたのは」 後ろ向けで“ケツバット”…18歳で衝撃の初対面
大阪出身の犬伏稔昌氏にとって清原和博は憧れの存在だった
西武で15年間プレーした犬伏稔昌氏は左投手への相性の良さでチームに欠かせぬ存在でもあった。近大付高から1990年ドラフトで3位で入団。入団1年目に清原和博に挨拶すると第一声で「お前か。俺の弟を泣かせたのは」とド迫力ですごまれたという。
大阪出身の犬伏氏にとって、PL学園のヒーローだった清原は憧れの存在。初対面で緊張しながら「近大付属の犬伏です。よろしくお願いします」と挨拶した。
「おお、お前か。俺の弟を泣かせたのは」
予期せぬ第一声だった。犬伏氏が高校2年時の1989年夏、府大会予選4回戦でPL学園を5-4で破っていた。当時3年生だった清原弟の夏を終わらせていたのだった。「えーっ! すみません!」。慌てて謝る犬伏氏に対して「後ろ向け」。すると「“バーン!”とケツバットですよ。俺はその試合は打っていないのに、と思いながら」と苦笑い。その後、会うたびに面白がってケツバットを受けていたものの、清原に可愛がってもらえるようになっていったという。
スター選手と2軍が主だった犬伏氏とは会う機会は少なかったが、ある日、清原から「お前、バットは買っているのか」と声をかけられた。当時、用具提供を受けられる立場ではなく、道具は自費で購入していた。そのことを伝えると「ロッカーに来い」。言われるがままに1軍のロッカールームを訪れると、清原から「5本くらい持っていけ」とバットを譲ってもらったという。
使い続けたバットが折れて在庫が減るたびに清原に連絡。「なんや?」「すみません、バットをください」「おお、取りに来い」。また、当時清原は左手だけ打撃用手袋をはめてプレーしており、犬伏氏も真似をして左手だけ着用していた。清原は1試合で1個、翌日には新しいのを使う。使用後の手袋がパンパンに詰まった手提げ袋を「これも持っていけ」。ありがたく受け取ったという。
「限られた給料でしたし、本当に感謝しています」
それだけではない。捕手で入団した犬伏氏だったが、高校時代に就いていた一塁でプレーすることもあっただけに「ちゃんとしたファーストミットはあんのか?」「……ありません」「持っていけ」。道具の面倒をみてもらったという。当時、1軍ロッカールームの1番奥が清原だった。道具を譲り受け、戻って部屋を出る際に伊東勤がキャッチャーミットを、石毛宏典、平野謙、辻発彦らは次々とバットなどをプレゼントしてくれたという。
「同期入団でもう1人、道具を買っていたヤツがいたので2人で分けて使わせていただきました。もちろん、清原さんのは自分が使いました。黄金期でしたし、1軍の人はすごいなと。自分は限られた給料でしたし、本当に感謝しています。バットは5、6万円しましたから。用具に関しては今の若い子のたちの方が恵まれているんじゃないですかね」
2軍戦では清原のバット、打撃用手袋でプレー。入団2年目頃にはサヨナラ本塁打を放った。「自分が活躍したときのバットはどこかにいっちゃって見当たらないのですが、サヨナラの時のバットは清原さんにサインをもらって大事にしまっています」。高卒入団の若手が感じた、眩しすぎる黄金期のメンバーだった。