HR王巡って阪神中日が“極秘会談” 満塁なのに敬遠…波紋呼んだ四球合戦

元中日・宇野勝氏【写真:山口真司】
元中日・宇野勝氏【写真:山口真司】

宇野勝氏は1984年にHR王…阪神・掛布と37本で分け合った

 1984年シーズン、中日・宇野勝内野手(現野球評論家)は阪神・掛布雅之内野手とともにセ・リーグ本塁打王のタイトルを獲得した。37本で2人が並んだままシーズンを終えたが、大いに注目を集めたのが、阪神対中日の最後の直接対決2試合で起きた“四球合戦”だ。宇野氏は10打席連続四球で打点1。「あの時は無茶苦茶、複雑だったし、賛否もあったよねぇ」などと当時の心境を語った。

 宇野氏はプロ6年目の1982年に30本塁打を放って優勝を経験。2勝4敗で西武に敗れたが、日本シリーズも全試合に「6番・遊撃」でスタメン出場してレギュラーシーズンとは違う雰囲気も味わった。2勝2敗で迎えた第5戦(1982年10月28日、西武球場)では0-0の3回2死二塁で中日・平野謙外野手の一塁線を抜ける打球が一塁塁審に直撃。二塁手の前方に跳ね返り、二塁走者の田尾安志外野手が三塁でタッチアウトになるというまさかのプレーも目の当たりにした。

 審判は石コロと同じということで、「石コロ事件」と言われる。シリーズの流れを変えたプレーに、宇野氏は「今年(2024年)もメジャーであったじゃん。大谷(翔平)君が。すぐに思い出した。同じようなことがあったなぁってね」と語る。ドジャース・大谷投手は10月9日(日本時間10日)のパドレスとの地区シリーズ第4戦で、テオスカー・ヘルナンデス外野手が放った三塁線を破る打球で二塁から一気に本塁を目指した。ところが、打球が三塁塁審に直撃し、まさかの本塁憤死。それを見て当時のシーンがよみがえったわけだ。

「でも、西武は強かったよね」と宇野氏は振り返ったが、その悔しさもバネに前進していった。プロ7年目の1983年は4月9日の広島との開幕戦(ナゴヤ球場)で北別府学投手から本塁打を放ってスタート。「打った球種はカーブかな。(広島捕手の)達川(光男)さんに『お前、カーブを狙っていた?』って聞かれた覚えがあるね」。8月には11本塁打を放って月間MVP。この時期に本塁打を量産するケースが多く「ミスターオーガスト」とも呼ばれた。

 同年は27本塁打で、8年目の1984年はさらに打棒が進化。掛布とともに37本塁打でタイトルを獲得した。この年も8月に15本塁打、10試合連続打点と大爆発。「あの時は単独で獲れると思っていたんだけど、掛布さんに追い上げられたんだよね」。宇野氏は9月22日の広島戦(ナゴヤ球場)で37号を放ったものの、以降の8試合は0本。一方の掛布は9月22日の巨人戦(後楽園)から4試合連発で37号に並んだ。

シーズンラスト2試合は直接対決…2人とも全打席四球だった

 そして、そのまま迎えたのが中日、阪神の直接対決2試合だ。10月3日はナゴヤ球場、10月5日は甲子園で行われ、両球団ともにシーズンラスト2試合という巡り合わせ。本塁打王争いが注目されたところで、繰り広げられたのが四球合戦だった。2人はいずれの試合も5打席連続四球。宇野氏は3日の試合で満塁でも勝負してもらえず、押し出し四球で打点1も記録した。結局、両者が37本でタイトルを分け合う結果になった。

「この件もいろいろな話が出るんだけどさ、阪神監督の安藤(統男)さんと中日(監督)の山内(一弘)さん、それに掛布さんもそれまでにタイトルを獲っているから加わって、どうするかって話をしていたって聞いたよ。俺は若かったから入ってなかったんだけどね」。そこで決まったのがお互い勝負しないということだった。

「俺は別に全然、勝負してもいいんじゃないのって思っていた。でも順位も決まっていたし、チームでそうするってことでね。バッターボックスに立って、無茶苦茶、複雑だったなぁ。まぁ、まぁ、どうなんだろうねぇ。賛否もあったよねぇ」。宇野氏は当時を思い出しながら話したが、こうも付け加えた。「俺が獲ったタイトルってそれしかないんだよね。今思えば、あの時獲れてよかったなってね。当時はまだ若いから、またそういうことがあるだろうなんて思っていたからね」。

 宇野氏はその翌年の1985年に前年を上回る41本塁打を放った。これが、いまだに破られていないNPB遊撃手の最多本塁打記録となるのだが、この時は本塁打王を獲得できなかった。阪神のランディ・バース内野手が54本塁打でキングになった。「俺の本数は増えてもバースがいたからねぇ……」。これも巡り合わせで、振り返れば1984年のタイトルは宇野氏にとって貴重なもの。当時は複雑だった四球合戦も今ではプラスにとらえているようだ。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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