理不尽な鉄拳制裁「野球が嫌に」 先輩が生贄に…好投の後に起きた“事件”
川尻哲郎氏は亜大1年春からベンチ入り…年間4勝をマークした
阪神などで通算60勝を挙げた川尻哲郎氏は1987年、亜大に入学した。同期に小池秀郎投手(元近鉄、中日、楽天)、高津臣吾投手(現ヤクルト監督)ら逸材がいた中で、最初に頭角を現した。1年春からベンチ入りして4勝をマーク。抜群の制球力と切れ味鋭い変化球が冴え渡り、将来を大いに期待された。だが、その後は好結果を残せなかった。「何かちょっと冷めたような感じになったんですよねぇ」と振り返った。
川尻氏の亜大1年時の活躍は、入学前のオープン戦でチャンスをもらったことから始まったという。「最初はバッティングピッチャーがいないってことで何人かと行ったんですけど、コントロールがいいというのがわかって……。(2年先輩の捕手で)この間まで(亜大の)監督をやっていた生田(勉)さんが僕のことを買ってくれて『監督、絶対使えますよ』と言って、(大学の)日の出のグラウンドでの東北福祉大とのオープン戦に先発することになったんです」。
オーバースロー右腕の川尻氏は、そこで好投した。「異例の登板だったんですけど、5回1失点に抑えちゃったんですよ。東北福祉大から西武に行かれた大塚(光二)さんにホームランを打たれただけで、あとは普通に抑えちゃったんです。そこからですよ」。1年春からベンチ入りを果たした。「1年では僕だけだったんです。小池と高津はまだ出てきてなかった。まだ埋もれていたころです」。
1年生投手のなかでは“出世頭”で春2勝、秋2勝の計4勝をマークした。「中継ぎとかでも投げたと思う。ノーアウト満塁で出されて抑えて、それで先発のチャンスをもらったのかな。当時見に来てくれた知り合いに『2アウト満塁フルカウントからスローボールを投げて三振とったりしていたよな』って言われた。今の(阪神の)村上(頌樹)君とかのああいうスローボールを僕もその頃に投げていたんですよ」と笑った。
部内で起きた理不尽な出来事に「ちょっと野球が嫌になりました」
順調すぎる船出だった。「物怖じしないというか、楽しんでやろうという気持ちがあった。春のリーグ戦では、この試合に負けたら最下位って時に、僕が先発して勝っちゃったんですよ。中央大戦で、それが何勝目だったかは覚えていないですけど、チームを救ったんですよ」と話す。だが「その後にねぇ……」と、今度は何とも言えない表情を浮かべた。
「最下位がなくなったんで解散になったんです、1日好きにしていいということでね。その日は寮に帰らなくてもよくて、次の日の門限が夜の8時。それまでに帰ってくればいいってことで、僕もいろんなところに行って遊んで、次の日の(午後)7時半くらいに戻ったんです。そしたらね、知らない間に門限が6時になっていたんですよ。当時ケータイとか何もないじゃないですか、連絡手段が。だから、僕が帰ったら、みんなざわざわしているんですよ」
門限変更を知らなかったのは川尻氏と1年上の先輩の2人だけだったという。「なぜ、(他の)みんなが知っていたのかはよくわからない。たまたま早く帰ってきたのか、知らないけど、僕と先輩の2人が自習室に呼び出されて……」。現在と違って、上下関係が厳しい時代。「僕はある程度、投げていたから怪我をさせたらまずいじゃないですか、だから軽く殴られたくらいで終わったんですが、先輩はかなりひどく……。その後“集合”はほどほどにってなりましたけどね」。
川尻氏にしてみれば、当然納得できない出来事だった。「昔はどこもそうだったかもしれないけど理不尽じゃないですか。クロって上が言ったらクロっていう世界なんでね。よほど自分の目標を持ってしっかりやるというか、やり通すって気持ちがなければ、たぶん4年続かないと思う。僕は4年いたけど残るのが正しい道とも思わない。世間の嫌がられることから耐える力はできるかなという気はしますけど……。僕もその件くらいからちょっと野球が嫌になりました」。
川尻氏は1年時に4勝をマークしたが、大学4年間の通算勝ち星はその4勝だけに終わった。「練習とかはきついし、何かちょっと冷めたような、まぁ、2年の時とかは適当に過ごしていたみたいな……。何か野球とはちょっと離れるみたいな……」。2年以降は小池、高津の同級生投手が台頭。立場も野球人生の流れも一変していった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)