監督激怒でマッサージも受けられず「若造が」 理不尽に耐え…拒否権なき首位打者の転機

ロッテ時代の西村徳文氏【写真提供:産経新聞社】
ロッテ時代の西村徳文氏【写真提供:産経新聞社】

首位打者を獲得した西村徳文氏の転機となった1年目オフのスイッチ転向

 1990年にパ・リーグ史上初めてスイッチヒッターで首位打者を獲得した西村徳文氏。1981年ドラフト5位でロッテに入団し、1年目のオフに両打ちに転向した。翌年には95試合出場と飛躍のキッカケを掴んだが、そこには理不尽にも耐えた猛練習があった。

 シーズン終了後、山本一義監督に監督室に呼ばれて声を掛けられた。「スイッチやってみるか」。西村氏は当時を振り返って苦笑いする。「『考えさせてください』とか『嫌です』なんて言えるわけない。すぐに『わかりました』って答えましたよ」。ルーキーイヤーの3月に2軍監督やコーチから厳しい言葉を浴びたことで、野球に対する甘い考えは一変していた。何とかプロ野球の世界で生きていこうという強い意志があったからこそ“本気”で取り組むことを決めた。

 山本監督に「室内で準備をしておけ」と言われ、即座に練習が始まった。左打ちの経験はなく、1日目の練習中から手はマメだらけに。「こんなきついことを続けないといけないのか……」と不安に襲われた。

 2日目からは高畠導宏打撃コーチから付きっきりでの指導を受けた。川崎球場で行われていた秋季練習の全体練習開始前からバットを振り、全体終了後に特別練習。当時の寮は埼玉・狭山市にあり電車で2時間を要したため、球場近くのホテルに泊まりこみ、夕食後にも室内で夜間練習を行った。

3年目には「ひょっとしたらこの世界でメシを食っていけるかも」

 1週間が経ったころ、腰の痛みを感じてマッサージをしてもらっていたが「監督にめちゃくちゃ怒られたんです。『1年目の若造が』と。そう言われたらもう、マッサージも受けられない」。そんな理不尽にも耐え、ただひたすらにバットを振る日々が1か月続いた。たまに夜間練習後にビールを買い、ホテルの部屋で飲むのがささやかな楽しみだった。

「朝昼晩、それだけやったらトータルで1日1200~1500回くらいバットを振ったり打ったりしている。寝ると関節が固まって、朝起きても手が開かない。1本ずつ指を開いていくのが日課でした。それだけみっちりやったので上達は早かったと思いますね」

 血のにじむような努力は結果となって表れる。プロ2年目の初打席は左打席に立ち、二塁打を放った。これがうれしいプロ初安打だった。この年、95試合に出場して打率.241、12盗塁と飛躍の足がかりを築いた。「2、3年で辞めるだろうと思っていた」という西村氏は、プロ3年目が終わったときには「ひょっとしたらこの世界でメシを食っていけるかも」と思えるようになっていた。

(町田利衣 / Rie Machida)

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