米武者修行も緊急帰国…即プロ初先発で打球直撃 消えた「シンデレラストーリー」

元中日・野口茂樹氏、1軍初登板は3回3失点
元中日左腕の野口茂樹氏はプロ2年目の1994年8月25日の広島戦(ナゴヤ球場)に先発し、1軍デビューを果たした。その年の沖縄春季キャンプ後にコロラド・ロッキーズ傘下1Aに野球留学して成長。シーズン途中に呼び戻されての初登板だった。結果は3回3失点。初回に打球が左手に当たるアクシデント、その後、ルイス・メディーナ外野手に3ランを浴びた。「あの時は握力がなくて投げきれなかったですね」と話した。
野口氏は1Aのセントラルバレー・ロッキーズで先発ローテーション入りし、オールスターゲームにも出場。「8勝5敗くらいだったかな。防御率も2点台。奪三振も向こうにいるときはトップでした。チームは弱かったけど、そこそこの成績は挙げたと思います」。高卒2年目左腕はロッキーズから誘われるほど米国で成長し、シーズン途中の8月、日本に呼び戻された。
中日では1988年に左腕・山本昌広投手がドジャース留学で“覚醒”し、シーズン後半に呼び戻されて活躍しており、野口氏の場合もそのパターンを期待しての帰国指令でもあった。そして出番となったのが8月25日の広島戦だ。1軍初登板での先発マウンド。「チャンスをもらって1軍で投げられるんだって感じ。そんなにドキドキして、どうこうというのはなかったと思いますけどね」。だが、初回に“まさか”の出来事があった。
「前田(智徳)さんのピッチャーライナーを手で止めにいって、ヒットになって……。メディーナに3ラン。あの時は握力がなくて投げきれなかった」。その後は立ち直ったものの3回3失点で降板した。この年、野口氏は8試合に登板し、先発はこのデビュー戦だけ。残り7試合はリリーフでオール無失点だった。「そういう意味ではとりあえずね。ホントは先発してシンデレラストーリーを行くはずなんですけど、まぁまぁその辺は僕らしく」と振り返った。
米国の滑るボールではスライダーが投げられずにスプリットを武器にしたが、日本に帰るとまた変わった。「ボールがしっとりするので、スプリットが今度はひっかかりすぎて落ちないんです。逆にスライダーが戻りました」。ストレートは格段に良くなった。「速くなったというか、威力がね。(捕手の)中村(武志)さんが今でも言ってくれるんですけどね。『お前の真っすぐはえげつなかった。重さがあった。怖さがあった』って」。左肘の状態も戻ってきたという。
2年目は8登板で0勝0敗、10回2/3、自責点3の防御率2.53
1994年の最終戦は、勝った方が優勝の中日対巨人10・8決戦がナゴヤ球場であった。巨人が6-3で勝ち、長嶋茂雄監督が宙を舞った。この試合を野口氏は球場のトレーナー室で見ていた。1軍メンバーだったが、ベンチ入りしていなかった。「すごい試合だったですよね。もし自分が投げていたらどうなっていただろうなぁ、心臓バクバクだろうなぁって思いながら、投げたい半面、ベンチじゃなくてホッとしていた自分もいたと思いますね」。
野口氏の2年目の成績は8登板で0勝0敗、10回2/3、自責点3の防御率2.53、被安打5、与四球10、奪三振11。「まだ、あの時の僕は試合で投げていただけ。(10・8の)あの場面に投げられる選手じゃなかったと思います」と話したが、これも経験。いずれは、そんな大舞台で、と気持ちを新たにしたのは言うまでもない。
翌1995年のプロ3年目シーズンは、背番号が57から47に変わった。「それは正月に(愛媛の)実家に戻って新聞を見て知ったんです。『背番号が変わっているよ』って言われたので『えっ』て。見たら47番になっていました。僕が知らない間に変わっていましたね」。左腕の背番号47といえば工藤公康投手(元西武、ダイエー、巨人、横浜)が有名だ。「球団がそこらへんで考えてくれたのかはわからないですけどね」と笑いながら話した。
さらには「(1994年まで47番だった右腕の)寺西(秀人)さんが(現役を)やめられて、『47を野口につけさせてくれ』って言ったと、僕は後でそう聞きました」とも。何はともあれ“新聞辞令”で知った新背番号で3年目に臨んだ。しかし、試練のシーズンになった。開幕ローテ入りは果たしたものの、思うような結果を残せなかった。「3勝10敗2セーブ。散々たる成績でしたよねぇ」と苦笑した。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)
