中日指揮官が「立っとけ!」 ベンチ横で直立不動…コーチから告げられた丸刈り指令

元中日・野口茂樹氏、KO後に試合終了までベンチ横で直立不動
1996年シーズンから闘将・星野仙一氏が中日監督に復帰した。元中日左腕の野口茂樹氏は当時、プロ4年目。1987年から1991年までの星野第1期政権時には在籍していなかったため、監督と選手の関係になるのは初めてだったが、最初から手厳しい指導を受けた。キャンプ地の沖縄・石川市営球場で行われた日本ハムとのオープン戦では先発し、ふがいない投球を見せたことから3回に降板後、ベンチ横に試合終了まで立たされた。
第2次星野体制になる前年の1995年、野口氏は30登板、3勝10敗2セーブ、防御率4.80だった。「散々たる成績でしたよねぇ」。高卒3年目にして開幕5戦目(4月13日ヤクルト戦、神宮)に先発し、5回1失点とまずまずのスタート、5月17日の広島戦(ナゴヤ球場)では6回1/3、4失点でプロ初勝利を挙げたが「あまり覚えていない」という。「3年目は投げたというだけですからね」とも口にした。
1995年の中日はシーズン途中に高木守道監督が休養、その後、徳武定祐監督代行も解任され、島野育夫2軍監督が、監督代行の代行になるドタバタぶり。翌1996年からの星野氏の監督復帰はもはや既定路線だった。そんな中で野口氏は先発でも中継ぎでも抑えでも投げ、多くの経験を積んだ形になった。「次の年、星野さんがなるって決まっていたから、島野さんが使ってくれたと思う。駄目でもいいから1年間使えという指令が出ていたんじゃないかと思います」。
野口氏は星野氏の側近中の側近である早川実氏がスカウト時代に発掘し、高木中日時代の1992年ドラフト3位で愛媛・丹原高から入団した左腕。プロ2年目(1994年)にロッキーズ傘下1Aに留学した際には、当時評論家の星野氏が視察したこともあった。そんな関係もあって監督復帰1年前から島野代行を介して育成に動いていたようだ。野口氏が「これだけ(使われて)えこひいきされるとよろしく思わない人も多かったと思いますけどね」と振り返ったほどだ。
1996年は星野氏が監督になって本格的に鍛えられた。1軍投手コーチは元エースの小松辰雄氏とスカウトから加入の早川氏の2人体制。期待の裏返しで闘将は野口氏には厳しかった。そんな中で起きたのが、試合中の「立っとけ!」だ。「石川球場の日本ハム戦でね。フォアボールを連発して打たれたと思います。それで序盤で交代となって『突っ立っておけ』と言われてベンチの横でスパイクのまま、ずーっと立っていました」。
立っていても気は抜けなかった。「だって星野さんのすぐ近くですから、逃げ場もありません。試合が終わるまで立っていました。沖縄のデーゲームですから暑かったです。スパイクの突き上げが一番きつかったですね。相手チームの人はどうしたんだ、って顔で見ていましたけどね」。とはいえ星野監督はカミナリを落とした選手には必ずチャンスを与える。野口氏もそれに応えて、その後のオープン戦を乗り切り、開幕ローテーション入りした。
コーチから丸刈り指令→上回るスキンヘッドで監督室へ
しかし、結果は今ひとつだった。開幕3戦目の4月7日の広島戦(広島)に先発したが、2回2/3、2失点で降板。中5日で先発の4月13日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)では池山隆寛内野手と古田敦也捕手に一発を浴びるなど5回3失点で敗戦投手になった。4月20日の横浜戦(横浜)と4月28日の広島戦(ナゴヤ球場)にも先発したが、いずれも6回途中でKOされた。4月は0勝1敗、防御率5.60に終わり、中継ぎに回ることになった。
5月1日の巨人戦(ナゴヤ球場)、内角球を巡って中日・山崎武司外野手と巨人のバルビーノ・ガルベス投手の乱闘劇(両者退場処分)が起きた後の0-6の6回から野口氏は3番手でマウンドに上がった。しかし、3回3失点と追加点を許して交代。試合後、2軍落ちが決まった。そして早川コーチからは丸刈りにするように言われたという。「たぶん、早川さんが気を利かせて、ですよ。そういう行動をすると監督は意気に感じてくれる。そこまで計算されていたと思います」。
もっとも、野口氏はその“上”を行った。「その日、寮に帰って、自分の部屋から陽の当たらない部屋に深夜2時までかかって引っ越して、次の日、理容室に行って、丸坊主にするけど、いいや剃っちゃえって、全部剃って球場に行きました」。スキンヘッドで野口氏は監督室に向かった。「監督は笑っていました。『2軍に行ってきます』と挨拶したら『行ってこい』って感じだったと思います」。怒られることも何もなかった。
それも含めて野口氏は当時の2人の投手コーチに感謝する。「早川さんにせよ、小松さんにせよ、何かあったら、星野監督より先に僕を怒って、監督に怒られる“被害”を最小限にしてくれたと思います。コーチが早めにガーッと怒鳴ったりとかしたら、監督はそれ以上言わない。(怒りが)沸騰する前におさまるってことでね。そういうことでコーチにはご迷惑をかけていたと思う。小松さんは何回も僕のために監督に謝りに行ってくれたそうですしね」。
周りのバックアップも受けながら、野口氏は星野中日で成長していった。1996年はスキンヘッドにして2軍落ちしてから約2か月後の7月に1軍復帰。また先発でチャンスをもらった。7月7日の横浜戦(宮城)は4回1/3、2失点で降板したが、そこから中4日の7月12日の阪神戦(ナゴヤ球場)でも先発で起用され、9-1の9回に4点を失いながらもプロ初完投勝利をマーク。そして8月11日の巨人戦(東京ドーム)ではノーヒットノーランを達成することになる。